―西国街道(5)―

(平成23年3月27日)

 京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町から京都までの道標などを掲載します。「大山崎」は町の資料によれば、天王山が淀川(桂川、宇治川、木津川の合流地点でもある)にせり出した場所を意味するそうです。自然の関門ともいうべき地形で古来日本の東西を結ぶ交通の要所とされてきました。また、今回終着点としたのは、平安京の表玄関であった羅城門址です。

  

京都府乙訓郡大山崎町、離宮八幡宮前の道標

● 関大明神を右へ曲がり西国街道を東へ進むと、離宮八幡宮の惣門前に出ます。その南の民家の前にガードレールに守られた小さな道標があります。背面の文字は全く読めません。あとで調べてみると、元禄5年(1692)の道標でした。道標としてはかなり古いものになります。「西国道」とこのころから呼ばれていたのがわかります。

● ここから左に向かうと淀川に出ます。ちょうど三川が合流する地点ですが、この辺りは明治から昭和の初めにかけて河川改良工事が行われているので、現在の地図ではそれ以前の様子はわかりません。奈良時代には僧行基によって架けられた山崎橋があったようですが、度々洪水の被害にあって11世紀には廃絶し、その後豊臣政権時代に一時復活しましたが、今日に至るまで橋の再建はありません。水無瀬川の河口に山崎の渡し場跡の石段が残っているそうです。ここから対岸の橋本宿に渡し船があり昭和37年まで残っていたということです。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「右 西國道」

 左面「大坂みち /此れ与里ひだ里 /橋本わたし」

 背面(判読不能)

  

大山崎町、離宮八幡宮 

● 説明板を要約すると、「貞観元年(859)僧行教が宇佐八幡宮からの帰途、山崎津で夜、霊光を見てここを掘ってみると、岩間から清水が湧き出したので国家鎮護のため「石清水」の八幡宮をここに創建した。その後対岸の男山にも分祀され、以後そちらが「石清水八幡宮」と称される。この地が嵯峨天皇の河陽離宮址であったため、現在は離宮八幡宮と号している。元冶元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)では長州藩の屯所となり、その際の幕府軍との戦いでかなりの建物等を焼失している。それまでは水無瀬川から円明寺川(現小泉川)に及ぶ広大な神領を有し「西の日光」と言われるほどの広壮優美な社殿を構えていた。」

● 境内には本殿、中門(四脚門)、惣門(高麗門)のほか日本製油発祥の地の碑や油祖像などがあります。 

  

大山崎町、離宮八幡宮と油売り 

● 写真左は境内にある「本邦製油発祥の地」の碑、全国油脂販売業者共通の店頭標識、油祖像、西国街道に建てられていた神領域を示す石柱です。室町時代のもので、おそらく4本があったものと考えられています。

● 離宮八幡宮と油の関係は「平安時代末頃八幡宮の神主が長木という道具を使って、荏胡麻(青しそうに似た植物の種子)を絞って油を採り、神祀りの灯火に用いた。これが始まりで室町時代には宮廷はもとより全国の寺社でも使用されるようになった」。江戸時代に菜種油が流通するまでは油について独占的な権利を持っていたようです。いまでも全国の食用油メーカーには信仰されています。当時の油売りの様子は司馬遼太郎の「国盗り物語」にも描かれています。

 

● 左の石柱銘文

 右面「殺生禁断所」

 正面「從是西 八幡宮御神領守護不入之所」

 左面「大山崎總荘」

● 右の石柱銘文

 右面「殺生禁断所」 

 正面「從是北 八幡宮御神領大山崎總荘」

 左面「守護不入所」

 

大山崎町、妙喜庵の石柱 

● JR山崎駅のすぐ前にある妙喜庵は正式名を豊興山妙喜禅庵といい、臨済宗東福寺派の寺院です。室町時代後期に東福寺の僧春嶽が開山しました。ここには国宝の茶室待庵があり、千利休が残した唯一の茶室といわれています。西国街道沿いに妙喜庵を案内する石柱がありました。宗鑑は足利九代将軍義尚の祐筆であったが義尚の死後山崎に隠棲し山崎を姓として、連歌にふけり油を担って京へ売り歩いて帰庵するのを常としていた。秀吉は天王山の合戦後もしばらくここを本拠として千利休を時として招いていた。ということです。 

 

● 銘文(正面・南)

 正面「宗鑑隠棲地 /豊太閤陣営 /千利休名席 /妙喜庵」

 背面「昭和三年初夏日 京都三宅安兵衛 /依〇〇建之」

 

大山崎町、阪急駅前の道標 

● ここは西国街道沿い、阪急電車大山崎駅前です。道標は公衆電話のすぐ横に建っています。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「官幣 /大社 水無瀬神宮 南西 /十丁」

 背面「昭和十四年三月一日 水無瀬神宮洗心流建之」 

  

大山崎町、観音寺鳥居付近 

● ここから西の山の中にある観音寺(山崎聖天)の鳥居と常夜燈が西国街道沿いに建っています。観音寺は、山崎の聖天さんとして京阪神の人々から厚い信仰を受けているお寺です。境内にあった建物は禁門の変の余波ですべて焼失し、現在残っているのは明治になって再建されたものです。寺伝によると寛平法皇(宇多天皇)が昌泰二年(899)に開創し、江戸時代初期に箕面勝尾寺の僧木食以空上人が中興したという真言宗の寺院です。本堂には聖徳太子作といわれる十一面千手観音菩薩が安置されています。

● 天王山は丹波山地の東南端にあたります。山頂付近には、天正十年(1582)の山崎の合戦に勝利した秀吉が築城した山崎城跡があります。天正10年6月2日の本能寺の変を当日夕方(諸説あり)には知った秀吉は交戦中の備中高松城から5日、6日で撤退し、俗に「中国大返し」といわれる機敏な動きで、2万余の大軍を率いて13日にはここ山崎で明智軍を下しています。実際に姫路から歩いてみるとその驚異的な機動力には驚ろかされます。 

  

大山崎町の石敢當 

● 鳥居前から西国街道を北に進むと五位川から広い道になります。この辺りに離宮八幡宮神領の東の黒門がありました。傍らには守護不入所と記された石柱も建てられ神人の大きな力を誇示していました。しかし、禁門の変でどちらも取り除かれた、と近くの説明板にありました。この築山のような場所には「石敢當/太孝山」と書かれた石柱があります。石敢當(せきかんとう、いしがんとう)は道路の突当りや門、橋などに建てられる中国から伝来の魔除けで、沖縄や南九州に多く見られるようです。これは昭和六年に台湾総督に勤務した方が建てられたそうで、相撲ファンでもあり四股名を太孝山といい、高瀬川という相撲部屋も持っていたということです。この奥に「高瀬川」と書かれた大きな石碑もありました。

 

(令和元年12月17日、追記)

● 家屋の新築に伴い、道路の西側の大山崎集会所前に移設されていました。 

  

大山崎町、久我畷の碑 

● ここは石敢當の少し北で、久我畷(こがなわて)と西国街道の合流地です。手前の地蔵像は道標でもあります。「右八わた」は離宮八幡宮を指すのでしょうか。その場合には道標が北向きでなければ方向があいません。

● 久我畷は、平安時代に都市計画道路として通された道路で、平安京の南方に延びる鳥羽造り道と淀川の山崎津を結ぶ、古代山陽道のバイパスとして設けられました。また、中世には八幡宮の神人の油の商いの道などとしても賑わいました。山崎の合戦で敗れた明智光秀もこの久我畷を使って近江に逃れたということです。

● 現在の地図でこの地点から北東方向に移動してみると、所々途切れますが確かに桂川に架かる久我橋近くまで直線道路の痕跡がうかがえます。

 

● 銘文(正面・西)

 正面右八わたみち /左よどふしみ

  

長岡京市、小倉神社の常夜燈 

● 久我畷を北に向かい名神高速道と東海道本線を過ぎ、小泉川に架かる小泉橋を渡ると長岡京市になります。西国街道から少し外れますが阪急電車の踏切の手前に小倉神社の石柱と常夜燈がありました。式内社小倉神社は、ここから西の方角、大山崎町字円明寺にあり、乙訓郡では最も古い神社です。社伝によれば、養老二年(718)の創建です。桓武天皇が平安京遷都(794)のとき、御所の鬼門除けとして祈願され、文徳天皇のとき神階正一位になりました。山崎の合戦のときには秀吉が片桐且元らを使者として戦勝祈願を行いました。 

  

長岡京市友岡の道標 

● 調子八角という6差路くらいの複雑な交差点に差し掛かり道を迷いかけましたが、一番細い道が西国街道でした。ここから少し北東に向かった友岡3丁目の辻に道標がありました。地図で確認すると、西の方の府道79号線が「柳谷道」となっています。「阿たご」は、山城国と丹波国の国境で京都市右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社を案内しているものと思われます。この道標の前には、国登録有形文化財で江戸末期に建てられた中野家住宅があります。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「右 やなぎ谷 /左 よど」

 正面「右ハ阿たご /春く やなぎ谷 /左 山さき」

 左面「右 よど /左 やなぎ谷」

 背面「春くよど 大坂万人講山城屋〇〇 /綿屋〇〇 /松屋〇〇」

  

長岡京市神足の道標 

● ここから西国街道は左折します。まっすぐ進むと神足神社、勝龍寺城跡を経由し淀方面に向かいます。この三叉路の南側に道標があります。

 

● 銘文(正面・北)(1802年、かのと・とり)

 右面「左京 /あたご」

 正面「右山さき /左よど」

 左面「右京 /あたご」

 背面「享和元酉年 /願主岡本三郎兵衛」 

  

長岡京市神足神社の石柱 

● 上の道標と同じ三叉路の東の民家の一角に神足神社の石柱があります。正面・西「式内神足神社」、右面「明治十五年二月」と書いてありました。東に向かいガラシャ通りを過ぎたところに神足神社があります。 

● 長岡京市の資料によると、「神足神社には「桓武天皇の夢」という伝説が残っている。田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられるという夢を見られたという。天皇は目覚められて田村に神を祭る社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。以後この社は「神足神社」、田村は「神足村」と呼ばれるようになった。」ということです。

  

長岡京市勝龍寺城 

● 勝龍寺城(住所は勝竜寺)は暦応2年(1339)細川頼春が築城したといわれています。この地は京都の西南部にあたり、西国街道と久我畷を抑える交通の要所に位置します。その後、永禄11年(1568)織田信長から細川藤孝に与えられ大改修されています。天正6年(1578)には明智光秀の娘お玉(後のガラシャ夫人)が藤孝の子の忠興に16歳で嫁いでいます。本能寺の変のあと光秀の属城となりますが落城し、廃城となりました。現在城内は公園になっています。 

  

長岡京市神足商店街 

● 道標のある三叉路に戻ってきました。ここから北の西国街道は神足商店街としてきれいに整備され、街道の両側には所々に旧家が残っています。また、商店街入口の左側には元禄13年(1700)の愛宕山常夜燈がありました。

● 商店街を進むと江戸時代末期の町家旧石田家住宅があります。説明板には石田家から長岡京市が 購入したとありますが、元は神足村の旧家岡本一族が「紙屋」を営んでいたとありました。三叉路の道標の背面に願主岡本五郎兵衛とありましたが、その岡本家でしょうか。

  

長岡京市の新しい道標 

● JR長岡京駅前の広い通りと西国街道の交差点の一角に新しい道標があります。

● 長岡京は、平城京から784年遷都しましたが、遷都直後に長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺されるなど変事がつづき、和気清麻呂の建議もあったので、794年平安京へ遷都することとなりました。 長岡京跡の遺跡は、ここから北の向日市、向日神社の近くにあります。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「長岡京 延暦三年至ル延暦十三年 /桓武天皇王城ノ地ナリ」

 正面「西国街道 右 一文橋 京 /左 調子八角 山崎」

  

長岡京市、新神足村道路元標 

● 神足商店街の北端のアーチの脇に「新神足村道路元標」がありました。この辺りは明治22年新神足村として発足しました。その後、昭和24年には新神足村、海印寺村、乙訓村が合併して長岡町となり、昭和49年に長岡京市となっています。

  

長岡京市馬場1丁目、西国街道の道標 

● ここ馬場1丁目も複雑な交差点です。地図で見ても六差路くらいになりますが、現地に立つと迷路の様で迷います。この道標は新しく建てられたものです。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「右 一文橋 京 /左 調子八角 山崎」

 正面「西国街道」

 左面 未確認です。 

  

向日市一文橋付近 

● この一文橋で小畑川を渡ると向日市になります。橋を渡ると一文橋の由来を記した石碑がありました。それによると、この橋は室町時代につくられましたが、大雨のたびに流され、その架け替えの費用として通行人から一文を取り始めたのが、橋名の由来だそうです。

  

向日市向日神社前の道標 

● 西国街道に面して向日神社の鳥居が立っていますが、その前の角に「長岡京」と書かれた道標がありました。ここから東の方に向かうと北大極殿公園があり、そここには「長岡宮大極殿跡」の碑があるようです。江戸時代の書物では長岡京跡は大原野神社とされていましたが、戦後の発掘調査によって現在の北大極殿公園に修正されました。余談ですが、公園の住所は鶏冠井町と書いて「かいでちょう」と読むそうです。

● 向日神社は、元々は「向神社」「火雷神社」という別の神社でしたが、中世に火雷神社が衰微したので、建治元年(1275)に向神社に統合し、名も向日神社に改め今日に至っています。本殿は応永29年(1422)の建造で、国の重要文化財に指定されています。明治神宮の本殿は当社の本殿を1.5倍のスケールにした設計だそうです。 

  

向日市、向日町道路元標と須田家住宅 

● ここは向日神社から100㍍ほど北になります。この変則四叉路の北側に「向日町道路元標」が、西側に須田家住宅があります。須田家は屋号を松葉屋といい、江戸時代初期から明治30年代まで醤油の製造販売を営んでいた旧家で、京都府の指定文化財になっています。また、この交差点はまっすぐ北へあたご道、右へ西国街道、左へたんば道となる分岐点でもあります。 

  

向日市寺戸町東ノ段の道標 

● この付近は小高い地形になっており、南北に通る西国街道の東側を東ノ段、西側を西ノ段と呼びならわし、地名として定着したようである。と近くに説明がありました。 

  

向日市寺戸町梅ノ木の道標、4基 

● 昔この辺り一帯は梅林であったのでこの地名となったということです。ここには4基の道標がありましたが、前の道路は大原野道で、ここから西の方に灰方(はいがた)という地名もありますので、寄せ集められた道標ではなく、元々設置されていたものと思われます。写真の左から

 

● 銘文 「右 灰方伺地蔵 /岩蔵観世音 道」

 西の方角に京都市西京区大原野灰方町という町名が見えますので、このどこかの地蔵とおもわれます。

● 銘文 「ほうぼだい院〇〇〇西三丁」

 向日市物集女町(もづめちょう)にある宝菩提院は、西暦680年頃建てられた寺院跡で平安時代には願徳寺と呼ばれた。衰微しつつあった願徳寺に鎌倉時代、東山三条の宝菩提院が移されたが、1962年に廃寺となった。地図上では西京区大原野の小塩山の麓に「宝菩提院願徳寺」が見られるが、距離が合わない。

● 銘文 「淳和天皇御陵 右二里 /桓武天皇皇后御陵 右七町」

   背面「大阪皇陵巡拝會」

 第53代淳和天皇御陵は、ここから西の方角京都市西京区大原野の小塩山山頂にあり

ます。桓武天皇皇后の御陵高畠陵もここから西の方、向日市寺戸町にあります。

● 銘文 正面「官幣 /中社 大原野神社 右へ一里」、左面「大正九年五月」

 背面には発起人と思われる6名の方の名前があります。大原野神社は前の道を西の方角になります。 

 

向日市、阪急東向日駅前の常夜燈 

● 駅前のビルの一角に「太神宮」の常夜燈があります。天宝13年(1842)に伊勢講の人たちが建てています。 お伊勢参りは江戸時代中期以降社会の安定とともに盛んになり、特に文政13年(1830)の遷宮のときには、約500万人くらいが参宮したと伝えられています。

 

(令和元年12月17日、追記)

● 平成23年の写真撮影時点ではマルイビルの北側にありましたが、道路の整備などにより少し南に移設されていました。地図は移設後の位置を示します。

  

京都市南区、福田寺、厳島神社 

● 西国街道は、JR向日町駅の前を通り東海道本線を地下道でこえると京都市南区になります。国道171の手前に僧行基が養老2年(718)に開創したと伝えられる迎錫山福田寺(ふくでんじ)があります。創建時には東寺をもしのぐ壮大な規模の寺院でしたが応仁の乱で焼失し、寺域が大幅に縮小されました。平安末期の住職で俊恵法師は、百人一首の詠み人でもありました。国道171を横断するとすぐに厳島神社の石柱がありました。(マップは福田寺の門の位置) 

  

京都市南区久世橋西詰の道標 

● 桂川の堤防を上がると道標が見えました。 

● 京都市の町名は旧村名や旧大字が冠されるものが多く見られます。道標の南の方角に「久世築山町」があります。これは乙訓郡久世町大字築山が昭和43年に京都市南区に編入された後の町名です。道標はこの辺りを案内しているものと思われます。また、道標の寄贈者の住所「猪熊八條東」は現在の地図では見当たりませんが、京都駅の西に南北の長い通りに猪熊通りがあり、八条は新幹線の南側になります。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「京都猪熊八條東 /田中いと」

 正面「右 西国街道」

 左面「左 字築山五町」

 背面「大正六年十二月」

  

桂川を渡る 

●道標の前に古い看板の店がありました。「網舩出舩元/遊舩料理/いずみや」と書いてあります。あとで調べてみると現在も13代目で営業されているとのことでした。往時は肥取りの牛車などの休み所もあり賑わっていたようです。

● ここから桂川を渡ると南区久世川原町から南区吉祥院石原長田町になります。 

  

京都市南区唐橋西寺公園、西寺阯の碑 

● 久世橋から吉祥院商店街を抜けると、再び国道171(九条通り)に出ます。九条通りを東に進み、左折してしばらく歩くと唐橋西寺公園があります。この公園の中央に小高い丘がありその頂上に「史蹟 西寺阯」の碑がありました。

● 近くの説明板を要約すると「西寺は、平安京が遷都された直後の延暦15年(796)頃から平安京の入り口にあたる羅城門の西側に東寺と対称に造営された官寺です。国家の寺として隆盛を誇りましたが、天福元年(1233)には塔も焼失し、以降は再建されることもなく地中に埋もれてしまいました。近年発掘調査が行われ主要な建物跡が確認されています。公園に残る小高い所は講堂跡が土塁として残ったものです。」とあり、昭和43年に国の史蹟として追加指定を受けています。

 

●銘文(正面・南)

 右面「大正十三年六月建設」

 正面「史蹟 西寺阯」

 左面「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ /大正十年三月内務大臣指定」 

  

京都市南区、矢取地蔵堂前の道標 

● 再び九条通りに戻り東に進むとこの地蔵堂前になります。ここに往来安全の常夜燈を兼ねた道標がありました。左側は「愛宕山大権現」と書かれた常夜燈もあります。この辺りの西国街道筋ではたくさんの愛宕山常夜燈がありその信仰の厚さを感じました。

● 右は西国街道を通り長岡京市の楊谷寺へ、左は鳥羽街道から八幡市の石清水八幡宮へそれぞれ案内しているものと思われます。矢取地蔵は別名矢負地蔵とも呼ばれ、その背中に空海の身代わりとなって矢を受けたときにできたと伝えられる傷が残っており、空海の命を救った地蔵さんとして伝わっています。

 

● 銘文(1854年、きのえ・とら、)

 東面「施主 高辻通新町西江入 /伊勢屋伝九郎 /安森氏」    

 南面「右ハ やなぎ谷観世音菩薩」(「ハ」は小文字)

 西面「左 やわた /八幡 往来安全」

 北面「嘉永七甲寅年秋 高辻とうり /石工定清」

  

京都市南区羅城門趾の碑 

● 地蔵堂の横の細い道を入ったところに児童公園があり、その真ん中に「羅城門遺址」と書かれた大きな石柱と説明板がひっそりとありました。ここを今回の姫路からの山陽道の終着点としました。西国街道とほぼ並行して走る国道171号線もこの近くの京阪国道口交差点で国道1号線に合流し終着点となります。(右の写真)

● 説明板を要約します。「羅城門は平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。天元三年(980)の暴風雨で倒壊した後は再建されることはなかった。」とありました。

● 江戸時代の京には「七口」と呼ばれる出入り口が一般的に使われていました。これは豊臣秀吉が京都改造の一環として京の周囲を囲む御土居を築き、七か所の土塁を開いて「口」と表現したことで一般的なものとなりました。この京阪国道口の交差点は山崎方面への西国街道と、淀方面へ延びる鳥羽街道の口として、「東寺口・鳥羽口」と呼ばれていました。平城京から太宰府への古代山陽道の延長上にある平安京の街道の出入り口が羅城門で、江戸時代、五街道に次ぐ脇往還となった西国街道の出入り口が東寺口ということになります。

  

都市南区、東寺 

● 京阪国道口から見た東寺の五重塔です。