―加東市の道標ー

(平成31年4月15日)

● 加東市内の巡礼道(ほぼ国道372号線)の道標を紹介します。ここでは加西市の法華山一乗寺(第26番霊場)から加東市の御嶽山清水寺(西国巡礼33ヵ所第25番霊場)に向かって巡礼道を進みます。

● 銘文などは「社の道標を訪ね歩く」(荒木勉氏)と「ふるさと加東の道標・道路元標」(藤本百男氏)を参考にしました。

 

加東市高岡、庚申堂前の道標1 (←クリックすると現在地を表示します)

● 加西市中野町の道標から国道372号線を北に進みます。小野市復井町で国道から旧道に入りますが、この辺りは加東市との境界が入り組んでいます。加東市になったところに庚申堂があり、その前にこの道標が建っていました。加東市最初の道標です。

● 四面に、向かう方角とその下に「すぐ・・・」と地名が書かれています。「すぐ、春ぐ」は、どちらも「まっすぐ」の意です。西面にある「大もん、屋渡」は、ここから南東方向の加古川東岸に「大門」「屋度(やど)」の地名が現在の地図にも見えます。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「西 春ぐ 本つけ山 姫路」

 正面「北 すぐ ふけ 北条」

 左面「東 すぐ 清水 やしろ」

 背面「南 春ぐ 大もん 屋渡村」

● 高さ126㌢、 幅24㌢、 奥行24㌢

 

加東市高岡、道標2 (平成31年4月26日、追加)

● 庚申堂から北に進むと徐々に右方向へカーブし曲がり切った先、左側民家の塀に密着してこの道標が建っています。左方向の善導大師道は、滝野町の五峰山光明寺を案内していますが、現在は少し先で行き止まりになっています。光明寺は加東四国八十八霊場の第一番霊場です。

 

● 銘文(正面・西、1832年、壬辰=みずのえ・たつ)

 右面「天保三辰八月」

 正面「左 日本 /一幅 善導大師道 /是ヨリ壱里」(「幅」は剥落)

 左面「四國霊場順拜供養 同行六人 /建之

● 高さ108㌢、 幅27㌢、 奥行26㌢

 

加東市河高、道標1 (平成31年4月26日、追加)

● さらに細い道を東に進みます。小さな三差路の正面に道標がありました。かなり風化が進み所々読めない文字があります。

 

● 銘文(正面・西、1832年、壬辰=みずのえ・たつ)

 右面「天保三辰〇七日〇〇」

 正面「右 〇登り たかさご /左 きよみづ 道」 (〇は「あとり」?)

 左面「・・・ /世話人 /まき」

● 高さ80㌢、 幅21㌢、 奥行19㌢ 

 

加東市河高、三差路の道標2

● さらに東に向かい、坂を下りJR加古川線の踏切を渡ると、突当りが三差路になりますが、そこにこの大きな道標が建っていました。

 

● 銘文(正面・西、1840年、庚子=かのえ・ね)

 右面「是より 姫路江七り 加古川へ /五り

        高砂へ 六り

 正面「左 きよみつ 道」

 左面「右 本つけ山 是より /三里

 背面「天保十一年 /子季春 庄右衛門 建之」

● 高さ170㌢、 幅28㌢、 奥行19㌢

 

加東市河高、福田橋西の道標

● 河高、三差路の道標2を見て左に折れ北に進むと、福田橋に差しかかる手前でこの道標に出会います。右指差し手形の下に「へんろみち」と刻まれたこの道標は、加東四国八十八ヵ所巡りのための案内のようです。「加東四国霊場の里」(藤本百男氏)によれば、加東四国八十八ヵ所は大正7年、旧加東郡の寺院関係者らが四国八十八ヵ所霊場を手本にして、郡内の八十八ヶ所の寺院仏堂を指定したもので、戦前までは盛んに巡礼が行われていたようです。この道標の示す第34番は河高の高蔵寺庵です。ここは加古川東岸の貝原の薬師堂(第33番)からの遍路道になっています。

 

● 銘文(正面・北)

 正面「☞(右手形)へんろみち 田村いつ子 /加東四國第三十四番

● 高さ89㌢、 幅21㌢、 奥行21㌢

 

加東市貝原、薬師堂境内の道標 (平成31年4月19日、追加)

● 旧国道で加古川に架かる福田橋を渡り右折すると、新国道372号線との交差点西北に薬師堂があります。境内の玉垣に囲まれた一角にこの道標はありました。近くの大木の根っこには道標らしき石柱が倒れかかっていましたが、文字は全く判読できませんでした。平成14年に国道372号線のバイパスが建設された際に薬師堂も一部整備されています。薬師堂は加東四国33番霊場でもあります。

 

● 銘文(正面・南、1824年、甲申=きのえ・さる)

 右面「  中島熊吉」

 正面「右 きよみづ /左 (志)ん町 た可郡」

 左面「文政七甲四月 立 四國同行中」

 背面「加東 /四國 第丗三番霊場」

● 高さ58㌢、 幅20㌢、 奥行19㌢

 

加東市野村、極楽堂の道標 (平成31年4月19日、追加)

● 薬師堂から南に向かうと道路の右側に極楽堂が見えてきます。現在は北側の道路に面した方が入口になっていますが、この道標は奥の南口脇の祠の横に隠れています。道標設置当時はこちらが入口であったかもしれません。位置的には河高三差路の道標2のちょうど東側対岸になります。

 

● 銘文(正面・東、1797年、丁巳=ひのと・み)

 右面「左 きよみ川”」

 正面「右 本つけ山」

 左面「為釋慈等信女菩提」

 背面「干時寛政九年歳次丁巳 /夏五月有八日建焉」

● 高さ139㌢、 幅26㌢、 奥行27㌢

 

加東市鳥居、鳥居下の道標 (平成31年4月19日、追加)

● 法華山や清水寺の案内があるのでここは巡礼道であったと思われます。「東 社へ八丁」とあるのは、佐保神社まで約900㍍であることを示しています。また、石の鳥居は、鎌倉時代に神社の八丁四方に建てられた鳥居の一つということです。地名の社(やしろ)は佐保神社の門前として町が発展してきたことに由来しています。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「左 本つけ山」

 左面「東 社八丁」 

 背面「右 きよみ(ず)」 (ず、は埋没)

● 高さ109㌢、 幅26㌢、 奥行25㌢

 

加東市鳥居、国道175東側の道標 (令和元年5月4日、追加)

● 鳥居下の道標から旧道を東に進み国道175号線を横断すると左側にこの道標は建っています。下部の名前の下は、土中のため確認できませんでした。

 

● 銘文(正面・南)(淮は下に木)

 正面「☞(右手形)加東淮四國 /へんろみち /第三十二番

   (下部)施主兵庫親切講 /金川志・ /富田未・ /清河銀・ /池田せ・」 

 

加東市社、佐保神社参道脇の道標(2基)

● 石の鳥居から東に進むと県道567号東古瀬穂積線の社交差点に出ます。その東側、ここが佐保神社参道の入口になりますが、その脇に鉄柵で囲まれた2基の道標が建っています。どちらもほぼ中央部分に折損の痕があります。周辺から移設されたもののようです。北側道標の正面は小野市の浄土寺を示しています。

 

● 銘文、南側の道標(正面・西、1797年、丁巳=ひのと・み)

 右面「左 本つけ山」

 正面「右 きよみ川」

 左面「寛政九巳(歳次)五月二十有日」

 高さ138㌢、 幅28㌢、 奥行27㌢

● 銘文、北側の道標(正面・東)

 右面「右 本つけ山 へ 四り

 正面「左 極楽山浄土寺江壱里 /・・・」(左行は判読困難) 

 左面「  施主〇〇野原〇」(〇は不明)

 高さ136㌢、 幅22㌢、 奥行16㌢

 

加東市社、法蓮寺境内の道標

● 佐保神社の北東方向になる法蓮寺の境内に台石の上にのった大きな道標があります。転々とした後ここに落ち着いたようです。

● 絹問屋の肥谷井(ひやい)さんが商売で西国を巡った帰りに清水寺の辺りで道に迷い寒さと疲労で倒れたが、通りかかった大名行列に助けられ一命をとりとめることができ、この経験から播州の街道に10本の道標を建てました。これはその内の1本ですが、その後転々とし、佐保神社内に倒れたままになっていたのを再建にあたって京都への街道筋にあたるここ法蓮寺に建てられたということです。ほかに清水寺西坂口に同人の道標が残っています。(下に掲載)

● 右の面は、字体の違いや内容から後で彫られたもののようです。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「昭和十六年四月八日発見 /同年十月廿五日再建

    (下部)山梨県都留郡西桂村小沼

          遠孫 肥谷井 渡邊顕三 /母 たけ」

 正面「左 きよみ川」

 左面「右 ほつけ山」

 背面「(梵字) 甲州 /肥谷井 角右衛門」

● 高さ175㌢、 幅30㌢、 奥行30㌢

 

加東市道池、地蔵尊前の道標 (平成31年4月19日、追加)

● この道標は、法蓮寺の東隣の地蔵尊の門柱替わりになってます。この辺りでは初めて「大さか」が案内されています。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「右 大さかみち」

 正面「南無阿彌陀佛」

 左面「左 きよミづ道」

● 高さ140㌢、 幅31㌢、 奥行30㌢

 

加東市社、善龍院境内の道標 (2基)  

● この道標は、善龍院の通用門を入って左側にあります。これも移設されたものと思われますが、このままの位置で塀の外の道路にあってもおかしくないものです。

 

● 銘文(正面・東、1762年、壬午=みずのえ・うま)

 右面「宝暦十二壬午年月日」

 正面「右 きよミ川道」

 左面「所願 三木屋重次郎 /隅屋長兵衛」

 背面「左 本つけさん道」

● 高さ106㌢、 幅24㌢、 奥行24㌢

(平成31年4月19日、追加)

● 上の道標のさらに奥まったところに燈籠型の道標がありました。前回見逃したようなので、今回追加しました。

 

● 燈籠型の銘文(正面・東)

 正面「右 きよミ川” 道」

● 高さ225㌢

 

加東市上中の道標 (令和元年5月30日、追加)

● 社の善龍院前の県道567号古瀬穂積線を北に進み旧道を上中の集落に入った小さな交差点の南東の角にこの道標があります。ここ上中(かみなか)は、東は清水寺方面、北は滝野方面、南は社、明石方面への分岐点で、四面にその案内があります。

 

● 銘文(正面・西) (1863年、みずのと・い)

 右面「左 きたの /下多き能」

 正面「文久三年癸亥四月 /すぐ きよミつ”」

 左面「すぐ やしろ 小野 /三木 阿可し」

 背面「右 志ん町 たき乃 /多可郡 たん春”」

 高さ120㌢、 幅16㌢、 奥行17㌢

 

加東市市役所北駐車場出入口の道標群(2基)(平成31年4月19日、追加)

● 市役所(社)の北駐車場(木梨)の出入口に2基の道標と2基の境界石が並んで建っています。周辺の道標などがここに移設、整備されていました。

● 大師は加東四国八十八霊場の仕上げの持寶院を指しています。老松町は持寶院辺りの旧町名になります。

● 明治22年の町村制で社村、上福田村(木梨村などを含む)などが発足、社村は明治45年社町となり、昭和30年には周辺の村と合併しています。平成18年に社町、滝野町、東条町は加東市として発足、という経緯があります。古くはこの辺りは木梨村と社村が入組んでおりこのような境界石を建てたものと思われます。

● 銘文の説明は、右からNo1・・No4として説明します。いずれも正面は東向きです。

 

● No1の道標

 右面「昭和八年五月之建」

 正面「(仏像坐像)右 老松町 大師道 /左 法華山 姫路道」

 左面「願主 定松孫太郎」

● No2の道標

 右面「昭和八年五月建之 願主 定松孫太郎」

 正面「「(仏像坐像)右 老松町 大師道 /左 法華山 姫路道」

● No3の境界石銘文

 正面「従是東 /木梨村」

● No4の境界石銘文

 右面「明治元戊辰建之」

 正面「従是北 /木梨村」

 

加東市木梨、落合橋西詰の道標 (平成31年4月19日、追加)

● 久米川が三草川と合流するところの落合橋の西詰にこの道標は建っています。

 

● 銘文(正面・東、1846年、丙午=ひのえ・うま)

 右面「左 きよミ川寺」

 正面「(仏像立像)右 本つけ山 /左 浄どうじ 小田」

 左面「弘化三丙午四月建之 /施主 藤右衛門」

● 高さ126㌢、 幅24㌢、 奥行24㌢

 

加東市木梨、鉤の辻の道標(2基) (令和元年5月4日、追加)

● 落合橋を渡り旧道を北に向かうと三草川の手前で鉤の辻になっていますが、その辻に2基の道標があります。右の道標には、京や伊勢はありますが、清水寺を案内する文字がありません。「ほつけ山」の面が正面かもしれませんが、ここでは道路に面した側を正面としました。左の道標は劣化が激しく文字が読みにくくなっています。

 

● 右の道標(正面・南、嘉永元年=1848年、戊申=つちのえ・さる)

 右面「左 ほつけ山 /飛めぢ」

 正面「右 いせ 京 /笹山 古市」

 左面「〇永元年 /申八月 (下部)施主 /次郎兵衛」

 高さ72㌢、 幅20㌢、 奥行19㌢

● 左の道標(正面・南)

 正面「右 きよ水 /た可郡」

 高さ71㌢、 幅40㌢、 奥行23㌢

 

加東市上三草、三草橋北詰の道標群 (3基)(平成31年4月19日、追加)

● 三草橋の北詰に2基の道標と道路元標が並んで建っています。右の自然石の道標は上部が欠損しているようです。真中の道標の背面には細かい字が沢山書かれていますが判読困難なため省略しました。左は旧村名「上福田村」の道路元標です。

 

● 右の自然石型の道標銘文(正面・北)

 正面「左 きよ水」

 高さ89㌢、 幅55㌢、奥行34㌢

● 真中の道標銘文(正面・北、1831年、辛卯=かのと・う)

 右面「 天保二卯歳建之」

 正面「北 志ん町 たきの」

 左面「左 ほつけ山 /是ヨリ五里

 背面「(判読困難)」

 高さ120㌢、 幅27㌢、 奥行27㌢

● 道路元標(正面・北)

 正面「上福田村道路元標」  

 

加東市上三草、公民館南の道標 (平成31年4月26日、追加)

● 上三草公民館と三草こども園の中間くらいのところにこの自然石型の道標は建っています。右面は加工がされておらず、文字がよく見えません。

 道標の右の道路が大坂街道で南東に向かうと下の道標のところにでます。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「左・・・」

 正面「右 大さか /左 きよ水 道」

● 高さ121㌢、 幅34㌢、 奥行22㌢

 

加東市上三草、上三草消防分団前の道標 (平成31年4月19日、追加)

● 三草川右岸を北東に進むと小さな交差点になります。ここは三草川沿いの京街道とこれに交差するのが大坂街道だと近くのご老人に教えられました。そして分団倉庫の後ろの小さな橋を「大阪橋」というそうです。この辺りは近くに三草藩の武家屋敷も残っており、三草の中心地であったようです。

● 加東市内の京街道(一部巡礼道と重複)は、姫路からは高岡、河高、社、上三草、上鴨川から篠山をへて京都に向かう経路です。大坂街道は、山陰方面から西脇をへて、加東市の曽我、三草、横谷そして三木市の吉川を経て大坂方面に向かっていました。

 

● 銘文(正面・北) 

 右面「すく きよ水 三里

 正面「すく 大坂 弘化二巳年 /四月建之 /四國同行中

 左面「すく ほ川け山 五里 /石工 長兵衛

 背面「すく た可郡」

● 高さ125㌢、 幅28㌢、 奥行28㌢ 

 

加東市上三草、大阪橋南詰の道標 (令和元年5月30日、追加)

● 消防分団倉庫から南東に進み大阪橋を渡った左側に素朴な自然石型の道標がありました。大阪とのみ案内しています。ここまで数百メートルの旧道に大阪の案内が3ヵ所もありました。人通りが多かったのしょうか?

 

● 銘文(正面・南西)

 正面「右 大さ可」

 高さ58㌢、 幅35㌢、 奥行30㌢(最下部で計測)

 

加東市山口、昭和池入口の道標 (平成31年4月19日、追加)

● 三草川右岸をさらに北に進むと昭和池入口の石柱とともに道標がありました。銘文にある「右 法華山」は西南、「左 大深山(東福寺)・くめ」は南東の方角にあり、道標の案内する方角が合いません。90°右に回転して右の道路に設置すると合うのですが、移設されたのでしょうか?

 

● 銘文(正面・北)

 正面「右 ほつけ山 /左 大深山・くめ」

● 高さ70㌢、 幅42㌢、 奥行14㌢

 

加東市上鴨川、多目的集会施設の道標、3基 (平成31年4月26日、追加)

● 国道372号線の上鴨川交差点の北側に上鴨川多目的集会施設という建物がありますが、この南側に3基の道標が集約されています。この交差点は国道372号線(京街道)から清水寺へ向かう県道311号上鴨川木津線の分岐になります。

● 右の道標は「文政十三年」の紀年銘が見られます。真中の道標は背面に漢字が沢山書かれていますが一部に「安政七年庚申」が見えます。その下の「三月/建之」は不鮮明です。左の道標は一部表面が剥落しています。

 

● 右の道標銘文(正面・南、1830年、庚寅=かのえ・とら)

 右面「文政十三寅三月」

 正面「右 三田 大坂 /左 ・・・ 道」

 高さ88㌢、 幅28㌢、 奥行28㌢ 

● 中の道標銘文(正面・南) (1860年、庚申=かのえ・さる)

 右面「左 ほつけ山 やしろ /志ん町

 正面「右 きよ水 三田 /大坂

 左面「左 京いせ ふるいち /さゝやま

 背面「・・・ /・・・ /安政七年庚申三月 /建之」(不鮮明)

 高さ154㌢、 幅29㌢、 奥行27㌢

● 左の道標銘文(正面・南)

 正面「きよみ川」

 左面「京 いせ (下部)観音講中」

 高さ105㌢、 幅28㌢、 奥行26㌢(最下部で計測)  

 

加東市上鴨川、旧道の道標 (令和元年5月4日、追加)

● 県道566号上鴨川西脇線から旧道を西に入ると右側の電柱の陰に道標がありました。劣化が進み、その上雑草に覆われているため側面の文字は確認できませんでした。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「明治三十年丁酉十一月上旬」

 正面「右 たかのこうり /左 やしろほつけ」

 左面「周旋人・・・」

● 高さ70㌢、 幅21㌢、 奥行15㌢

 

加東市上鴨川、372号線沿いの道標1 (令和元年5月30日、追加)

● 国道372号線上鴨川交差点のさらに北の交差点の北東角、民家の前に大正時代の文字も鮮明な大きな道標があります。現在の地図ではその道路は確認できませんが、東へ進むと西坂口の道標の場所につながっているようです。ここからであれば南側を回る現在のルートより近道であったかもしれません。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「左 ほつけ山 や志ろ /たきの

 正面「右 きよ水 三田 /大阪

 左面「左 京いせ ふるいち /ささやま

 背面「時大正三年十月 発起者 /田中豊三郎 /大畑伊三郎 (下部)各村周旋人

    /剣物為蔵/藤原藤三郎/西山熊太郎/西山市右衛門/平田治介」

 高さ154㌢、 幅28㌢、 奥行28㌢、

 

加東市上鴨川、国道372号線沿いの道標2 (令和元年5月30日、追加)

● 上の道標の道路の向かい側にある道標ですが、劣化が進み文字はほとんど読めません。墓標のようです。「社の道標を訪ね歩く」によれば銘文は次の通りです。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「文政五年三月十七日」

 正面「(仏像) 知幻信士俗名田中氏 /左 ほつけ山」

 高さ76㌢、 幅23㌢、 奥行15㌢

 

加東市平木、西坂口の道標 (令和元年5月4日、追加)

● この道標は、県道311号線の住吉神社の北側から細い道(旧丹波道?)を約2㌔ほど東に入った道の右側に建っています。社の法蓮寺境内にもあった「肥谷井角右衛門」さんが建てた数基の道標の一つになります。背面には建立の由来が110文字の漢字で書かれていますが、これによれば、道標の建立は「文化五(1808)年十二月」のようです。(荒木勉氏の「社の道標を訪ね歩く」に背面全文掲載あり)

 加東市周辺で見かける道標の中では一番大きく立派な道標です。西坂口に建てられたものが昭和53年にここに移設されたと近くの説明板にありました。

 

● 銘文(正面・北、1808年、戊辰=つちのえ・たつ)

 右面「左 ほつけ山」

 正面「右 きよみ川」

 左面「丹波道 甲州 /肥谷井角右衛門建之

 背面「播州名勝観音霊区曰清水・・・以下省略」 

● 高さ185㌢、 幅30㌢、奥行30㌢

 

加東市平木、鴨川小学校前の道標 (平成31年4月26日、追加)

● 県道311号線の鴨川小学校前に加東四国八十八ヵ所の道標が建っています。右指差し手形で第十一番霊場を案内しています。「兵庫」の左に名前らしい漢字が四行ありますが、頭の文字(右から、虫合、仝、三、〇(不明))のみ見えます。あとは埋没しています。

 

● 銘文(正面・西) (淮は下に木)

 正面「加東淮四國 施主兵庫親・・・(親切講?)

    ☞(右手形) へんろみち

    第十一番  」

● 高さ100㌢、 幅22㌢、 奥行21㌢

 

加東市平木、平木ポンプ所横の道標 (令和元年5月30日、追加)

● 県道311号線をさらに東に進みます。ハットリ平木事業所前の平木ポンプ所に隣接した道路より一段高いところに2基の仏像があり、その右側の仏像の光背部には道案内が書かれていました。案内の方向からするとこの辺りが久米坂の登山口であったと推定できるのですが・・・。

● (令和元年9月29日、追記)

 久米坂は山頂から見て南西の山麓からの参詣道です。別名を「越道」ともいわれ、東条方面からの道で、現在では東条湖に没した山峡の道をたどり、越道池の手前から山に入る道です。この古道の脇に舟形光背型の地蔵菩薩石像があり、光背には「右 丹州道/左 清水道」と書かれています。この久米坂は本坂の五丁付近で本坂に接続します。(平成9年、堀田和男著「御嶽山清水寺」を要約)

 

● 銘文(正面・西)

 正面「右 丹州道 /(地蔵立像)/左 清水道」

 高さ53㌢、 幅24㌢、 奥行15㌢

 

加東市平木、清水寺登山口の丁石 (令和元年5月4日、追加)

● いよいよ御嶽山清水寺です。自動車用登山道の入口には案内の標示があり、その少し先には歩行者用登山道があります。入口には十八丁を示す大きな丁石と少し登ったところの右側に十七丁の丁石があります。その先の丁石は次の機会にします。(地図は写真左の登山口案内標示の位置を示す。)

 

● 登山口案内標示の銘文(正面・南)

 正面「播州(横書き)清水寺登山口」

 高さ179㌢、 幅31㌢、 奥行19㌢

● 十八丁丁石(正面・南)

 右面「昭和三年十一月」

 正面「推古 /聖武 両帝勅願所清水寺

   (下部) 山門マデ新坂道/ 十八丁(左矢印)歩道」

 左面「施主 名古屋市西區伊倉町四丁目 /加藤鈴子」

 背面「建之奉仕者上鴨川青年團 名古屋呼續町 /石工鬼頭直三郎

 高さ150㌢、 幅30㌢、 奥行30㌢

● 十七丁丁石(正面・東南)

 正面「十七丁 ナゴヤ 加藤鈴子」    

 

清水寺登山道の丁石 (令和元年5月24日、追加)

● 登山道は九十九折が続き、ほぼその曲がり角に丁石が設置されているという感じです。ここでは十三丁、十丁の丁石と九丁付近の登山道を紹介します。丁石の銘文とサイズはいずれも十七丁丁石と同じです。

● 余談ですが、姫路市内の書写山、広峰山も登りましたが、いずれも1~18丁でした。これは偶然なのか、それとも18丁に何か意味があるのでしょうか?

● 高さ118㌢、 幅21㌢、 奥行16㌢ (八丁丁石で計測したもの)

 

登山道の道標 (令和元年5月24日、追加)

● 六丁と五丁のほぼ中間に久米坂との分岐があり、そこに地蔵像と2基の道標がありました。またこの場所を地図上で特定するのも困難なので、地図の標示は省略しました。

 

● 左の道標銘文(正面・北)

 正面「右 くめざ可 /左 本坂 三田 /中山 道」

 高さ135㌢、 幅30㌢、 奥行30㌢

● 右の道標銘文(正面・北)

 正面「☞(右向き手形) 加東四國(右横書き) へんろみち /次ハ 十一番

   (下部)施主 神戸市 /佐藤 /西本」

 高さ105㌢、 幅20㌢、 奥行20㌢、

 

加東市平木、登山道西坂分岐点の道標 (令和元年5月30日、追加)

● 登山道の一丁石の先、階段下に2基の大きな道標があります。特に右は2メートルを超える大きな道標です。道標の右が西坂の下り口のようですが、現在は閉ざされていました。ここを下りると西坂口の道標、上鴨川の道標1のところにつながるようです。

 

● 右の道標銘文(正面・東)

 正面「右 法華山道」

 高さ238㌢、 幅126㌢、 奥行8㌢

● 左の道標銘文(正面・東)(1845年、乙巳=きのと・み)

 右面「弘化二歳 /巳四月 四國 /西國 供養」

 正面「☞(手形)ほつけ山」

 左面「左 ミき /あ可し」

 背面「左 中山寺」

 高さ137㌢、 幅36㌢、奥行36㌢

 

加東市平木、清水寺境内階段途中の丁石と道標 (令和元年5月30日、追加)

● 中段の階段の登り口は右側が三田市の花山院への道標、左側は十七丁石になっています。右側に案内された花山院は花山法皇が晩年を過ごした菩提寺で西国三十三霊場の番外霊場です。また十七丁石は本坂の加藤鈴子さんのものより古く江戸時代のものです。西坂の丁石かもしれません。

 

● 右側の道標銘文(正面・南西) (1806年、ひのえ・とら)

 右面「文化三年丙寅」

 正面「 東光山菩提寺 /右 花山院御廟所道 /是ヨリ四里

    /中山寺江行ぬけ

 左面「同郡上瀧野村 /施主・・・」

 高さ92㌢、 幅31㌢、 奥行31㌢

● 左の丁石(正面・南西) (1817年、ひのと・うし)

 右面「文化十四丁丑三月十八日」

 正面「(梵字)十七丁 ・・・繁昌村 /世話人・・・多吉」(一部不鮮明)

 高さ94㌢、 幅24㌢、 奥行24㌢

 

清水寺境内の十八丁丁石 (令和元年5月30日、追加)

● 階段を登り切ったところの右側に十八丁の丁石がありました。十七丁と同様に江戸時代のもののようです。また本坂とは異なり十八丁から麓への逆順の丁石になっています。

● 清水寺の登山道は下の写真の通り、かっては5ヶ所が整備されていました。現在は本坂が一般的に使用されていますが、それ以外は使用できるかどうか未確認です。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「・・・」文字は見えない。

 正面「(梵字)是マデ 十八丁」

 左面「ハンジョウムラ /世話人 作左衛門」

 高さ78㌢、 幅24㌢、 奥行24㌢

 

加東市平木、清水寺大講堂下の道標 (令和元年5月30日、追加)

● 大講堂前の階段下にひっそりと道標が建っていました。法華山を案内しています。

 

● 銘文(正面・東) (令和元年5月30日、追加)

 正面「左 本つけ山 /是ゟ八リ

 高さ64㌢、 幅31㌢、 奥行20㌢

 

加東市平木、清水寺境内放生池の道標 (令和元年5月4日、追加)

● 境内には様々な石碑などがあります。この道標は、大講堂東側にある放生池の北に建っています。24番霊場の中山寺と28霊場の成相寺を案内しています。すでに巡拝を終えた三つの村の人たちによって建てられたものと思われます。また、ここにも名古屋の伊藤萬蔵氏の大きな石碑が参道にありました。

 

● 銘文(正面・北) (1844年、甲辰=きのえ・たつ)

 右面「右 な可やま 是より /九里半

 正面「左 奈連あい 是ゟ廿一里余

 左面「天保十五年甲辰春 /西國供養同行中 西戸村 /大川瀬 /大谷村」 

● 高さ104㌢、 幅23㌢、 奥行㌢、

―加東市内番外編ー

 

加東市天神、天神三差路の道標 (令和元年5月24日、追加)

● この道標は県道75号小野藍本線の天神三差路の南に建っています。2メートル近い大型で彫も深くよく目立つ堂々とした道標です。この辺りは江戸時代大坂街道と京街道の分岐点の宿場町で、旅籠や料理屋も数軒あり栄えていました。道標の後ろも美好亭という料理屋であったそうです。(「東条の道標巡覧記」より)

 

● 銘文(正面・西) (1827年、丁亥=ひのと・い)

 右面「(下部)世話人 /都倉七兵衛」

 正面「右 大坂 兵庫」

 左面「左 京 きよ水」

 背面「文政十丁亥八月 (下部)石工 /魚橋 /神出左京」

● 高さ172㌢、 幅33㌢、 奥行33㌢

 

梅木峠の境界石 (令和元年5月24日、追加)

● 梅木峠に三国の境界石があるというので、細い山道を車で進んでみました。林を抜けた開けたところに一軒の民家があり、その前に3基ほどの石が草の中にありました。スマホで現在地を確認すると、ここが加東市平木(播磨国)と三田市大川瀬(摂津国)と丹波篠山市今田町木津(丹波国)の境界地であることを示しています。各石とも文字の確認はできませんが、多分これらの石がその境界を示すものと思われます。

 

(令和元年6月14日追記)

「三田の道しるべ」によると、ここにあるのは2基の道標でした。一番手前は不明ですが、2番目と3番目の道標の銘文は次の通りです。

● 2番目の道標(正面・北、自然石型)

 正面「右 いま寺 /左 大川瀬」(「いま寺」は旧河東郡東城町今寺)

 高さ82㌢、 幅42㌢、 奥行20㌢、

● 3番目(正面・北、角柱型)

 正面「右 西戸天神町 /左 大川瀬吉川」

 左面「判読困難」

 高さ50㌢、 幅27㌢、 奥行19㌢