―因幡街道の道標―

(平成23年10月18日)

 因幡街道は江戸時代に整備された脇街道の一つで、播磨国姫路から因幡国鳥取までの街道です。姫路市青山の山陽道から分岐し、姫路市飾西(しきさい)宿、たつの市觜埼(はしざき)宿などを経て、佐用町平福宿までは出雲街道と重複します。因幡街道は平福から北に向かい鳥取ヘ、出雲街道は西ヘ向かえば津山を経て松江に向かいます。

 ここでは佐用町までの道標を紹介したいと思います。

「たつの市追分から佐用へ」は下部を参照して下さい。

 

町境界石 (平成23年10月24日、追加)

● ここは因幡街道から少し外れます。現在の住所では姫路市町田(ちょうだ)と書写の境界のようです。境界石から西、道路の北側が町田で、町田の西側が飾西(しきさい)になっています。延享4年(1747)の「実法村、飾西村絵図」によれば飾西は幕府領、町田は一橋領になっています。しかし、江戸時代を通じてこの辺りは姫路藩領、龍野藩領、幕府領、一橋領と一様ではなかったようです(姫路市文化財シリーズより)。この町境界石が、いつどのような事情で建てられたかは定かでありませんが、上述のような時代背景が設置要因の一つと考えられます。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「従是西 餝西 /町田 立・・・」(下部埋没のため不明)

 

姫路市飾西の道標(1)

● 飾西は姫路市青山の山陽道から分岐して最初の宿場になります。県道724の飾西交差点から旧道を北に入ると、五叉路の真ん中がロータリーになっていますが、ここにこの道標はありました。ここから因幡街道は西に向かいます。 この道標は西方面から来た人への案内と思われます。姫路市の資料には次のように書かれていましたので、因幡街道は古くは青山の少し東の下手野から分岐していたようです。

 「山陽道の下手野から分岐して飾西を経て石倉、追分を通り因幡、伯耆、出雲、美作に向かう往還が因幡街道とか美作街道と呼ばれていた。飾西の宿駅は寛永年間(1624~44)には成立していたようで、次第に制度も整っていき、実法寺、町田も駅役を勤めた。18世紀後半には運営が困難になっていた。飾西の本陣は庄屋中山助太夫が勤めた。本陣の門、書院は現存している。」

 

● 銘文(正面・北西)

 右面「右 書写山道」

 正面「右 ひめぢ道」

 左面「是ゟ志よしや道」(「より」は異体字)

 

姫路市飾西の道標(2)

● ロータリーの道標から北の方に向かった三叉路にこの道標はありました。 道標の正面は書写山方面から来た人への案内になりますが、ここに「左一丁下」と表示がありますが、これは上の道標の位置になります。そこを右に曲がれば、山崎や林田などに行けることを示しています。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「左 姫路 昭和四巳年 /施主 福岡禎次郎」

 正面「右 四辻 /左 一丁下右曲

   (下部)山崎 /林田 龍野 /新宮 佐用 道」

 左面「右 姫路 書寫 /廣峯 道」

 

石倉稲荷大明神下の道標 (平成23年10月24日、追加)

● 因幡街道は、飾西宿を過ぎると再び県道724に出て長池を通り、山陽道姫路西ICからたつの市の追分までは国道29と重複します。旧街道は、姫路西ICを過ぎてから少し北の旧道ヘ入り、石倉稲荷大明神の下を通ります。

● この道標は、稲荷大明神の鳥居の右側に立っていました。また、鳥居の左には石倉の由縁を記した石板があり、この辺りに自然の「石ノ鞍」があったとか神功皇后が石の鞍を置いたとかの言い伝えがあると書いてありました。 この石板の左の石燈籠の後ろに伝えを模した「石ノ鞍」が祀られています。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「(右下部分)從是二十ニ丁 /

     峯相山寺趾登山口指道標」

 左面「大正十三年一月建之」

 

伊勢茶屋の跡 (平成23年10月24日、追加)

● 因幡街道は国道29より西の山すそを通り、現在の姫路西霊園から山を越えて、たつの市の追分に出るルートでした。姫路西霊園の南辺りが飾西宿と追分の中間になり、そこに伊勢茶屋があって旅籠や立場があったということです。

● 山越えの道は姫路霊園の西で通行止めになっていました。再度国道29を通り、峠を越えてたつの市の追分に出ました。 

 

姫路市林田町新町やのスーパー前の道標 (平成23年10月26日、追加)

● 国道29号線たつの市追分の交差点を北に進むと再び姫路市になります。林田の交差点を左折し、林田川に架かる新町橋を渡るとやのスーパーの店先にほとんど風化して読み取ることのできない道標と道路元標が並んで立っていました。道標は姫路市石造物銘文集によれば次のように書かれているそうです。

 

● 角柱型の道標銘文(正面・東) 

 右面「世話人 内海・・・ /・・・」

 正面「右 因州・・・ /すぐ 金ぴら・・・ 道」(やや南)

 左面「すぐ こうべ・・・ /左 あんじ・・・」

 背面「右 金ひら・・・志 /左 こうべ・・・」 

● 道路元標銘文(正面・東)

 「林田村道路元標」

 

姫路市林田町市役所支所前の道標 (平成23年10月26日、追加)

● やのスーパーを西に進むと市役所の支所の手前が鉤の辻になっています。その辻の木陰に板碑型の道標がありました。

 

● 銘文(正面・南東)

 右面「右 當國(横書き)やはた八幡社 十三丁」

 正面「(左指差し手形) 圓福寺 ニ丁 /祝田神社 三丁 /

    曽我井坂 十ニ丁 /鴨池 四丁」

 左面「売薬商 片平元吉」

 

宍粟市山崎町山田の道標 (平成28年2月5日、追加)

● 現在では、中国自動車道山崎インターの北の国道29号線の脇に建っています。帽子付きの珍しい形をしています。道標の横の「史跡 旧因幡街道」碑(昭和59年11月建立)の背面の由来は次のようになっています。「山崎は古来山陰山陽を結ぶ最も重要な地点で今日の国道二十九号線は昔因幡街道といは(ママ)れたコースである。鳥取から南下して東和通を総道神社で東に折れここから又東へ須賀の渡を渡って安志林田を経、姫路へ達した」。ここから南は新宮、龍野、網干方面になり、東へは安志を通り、福崎や北条方面へと行くことができます。高さは五尺(1.5㍍)、方九寸(27㌢)で、文字は青蓮寺の日諒上人の筆によるものです。

 

● 銘文(正面・西)(1797年、ひのと・み) 

 右面「寛政九丁巳歳三月日」  

 正面「右 志ん宮 あ本し /たつの むろ川 道」

 左面「左 あんじ 本うでう /はやし田 ひめぢ 道」

 背面「願主 小村屋彦七 /綿屋理兵衛」

 

宍粟市總道神社境内の道標 (平成28年2月5日、追加)

● 境内の東側に因幡道に向かって建てられています。目測ですが、90㌢ほどの台石の上にある150㌢ほどの自然石の道標です。

● 境内の案内板によれば、神社の由来や道標との関連が次のように説明されていました。創建年代は不明。ご祭神は男女二柱の神様で京都では街の東西南北の四方の守りとして祀られていたと伝えられ、山崎町の家街の鎮守様として迎えられたものと思われる。神社の表通りは、東西が出雲街道(=美作道)で、北行きが播磨一の宮伊和神社への参詣道(=因幡道)となっており、この神社はその分岐点であったことから玉垣の大柱1本に道標が彫られ現存している(約100㍍南の東鹿沢交差点の道標)。これらの点から道祖神のように道しるべの神様とも仰がれ神社名の總道神社とは、そこから名付けられたものであろう。

 

● 銘文(1799年、ひつじ)

 東面「當國一ノ宮 / 是ヨリ三里北」

 西面「寛政十一年未五月日」 

 

宍粟市東鹿沢交差点の道標 (平成28年2月5日、追加)

● 元は總道神社の玉垣の大柱のようです。3面に玉垣の横柱との接合部と思われる個所があります。表示の道案内との関係は、上記の神社の説明板の通りです。

 

● 銘文

 東面「右 因幡道」

 南面「左 美作道」

 他の面は、名前らしき文字がありますが、彫が浅く風化も進み判読不能です。

 北面に「玉垣新建(?)」らしい文字が見えました。

 

 

― たつの市追分から佐用へ ―

  

たつの市神岡町追分の道標 (平成23年10月24日、追加)

● 再び国道29号線を南下してたつの市追分に来ました。

● ここが当時の追分であったと思われます。地図で確認すると、因幡街道を姫路西霊園から山越えをして稲荷神社を通るとここに出ます。民家の玄関先に五角形の立派な道標があります。山陽道青山の道標を模したのでしょうかよく似ています。(銘文一部不明)

 

● 銘文(正面・南)

 右背面「神戸 大阪道(その下部に)飾西江 一里十丁 /姫路江 三里一丁」

 右 面「右 因州 /伯州 道(その下部に)林田江 十九丁二十間 /

     安志江 ニ里二十九丁/ 山崎江  四里三丁」

 正 面「右當国やはた八幡社江 三十一丁十七間」

 左 面「左作州 /雲州 道(その下部に)東觜崎江 三十ニ丁十九間 /

     千本江 三里十五丁/ 三ケ月江 六里」

 左背面「明治十九年五月十一日建設 発起人(横書き)・・・」

    (発起人の下に十名ほどの名前あり)

 

たつの市神岡町西鳥井荒神社北の道標 (平成23年10月26日、追加)

● 縁切り地蔵から西に進み、林田川の鳥井橋を渡って右に折れたところに荒神社があります。その北側に道標はありました。この辺りは当時の渡しであったと思われます。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「すぐ 鵤 網干 道」

 正面「右 林田 安志 山崎 /左 因州(刀三つ) 雲州 觜﨑 道」

 左面「右 姫路書写神戸大阪 /すぐ 林田 安志 道」

 背面「明治三十四年一月 /発起人 柰(だい?)崎忠次郎 立」

 

たつの市觜崎宿周辺 (平成23年10月24日、追加)

● 觜崎宿村たつの市神岡町東觜崎)は、飾西宿からニ里十八丁にある揖保川左岸の宿場です。対岸は觜崎村で現在はたつの市新宮町觜崎となっています。觜崎は近くの山並みが鶴の嘴に見えることからそう呼ばれるようになったということです。(地図は左の写真の位置を示す)

● 素麺神社(大神神社)は、明治31年素麺発祥の地である大和一の宮三輪(奈良県桜井市三輪)の大神(おおみわ)神社より勧請を受けて建立され、播州素麺「揖保之糸」の守り神となっています。平成16年に大改修が行われています。

● 觜崎の磨崖仏は、揖保川左岸の岩面に彫られた5体の石仏です。文和三年(1354)の紀年名があり、県下では最古のものです。いぼ神さんとも呼ばれ古来より信仰を集めています。拝殿は觜崎橋の西詰にあります。

 

たつの市寝釈迦の渡しの道標 (平成23年10月24日、追加)

● 「寝釈迦の渡し」は、觜崎宿の中の因幡街道を通り抜け、揖保川の堤防を上がったところになります。觜崎宿村から対岸の新宮町觜崎村への渡しです。

● ここに最近復元されたと思われる道標がありました。ここから南の山並みを見るとお釈迦さまが仰向けに寝ているように見えることからこのように呼ばれるようになったということです。現在はここから少し北の県道724に觜崎橋が架けられています。街道は渡し越え西へ向かうと千本宿や美作ヘ、南へ川沿いに下るとたつの、山陽道正條宿を経て室津へ、少し川を上るといぼ神さん(磨崖仏)へ、それぞれ向かいます。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「右 千本みまさかミち」

 正面「寝釈迦の渡し」

 左面「たつのむろつみち」

 背面「スグ上ミ いぼがミさん 宿村」

 

新宮側の寝釈迦の渡し(平成23年10月24日、追加)

● 対岸、新宮町觜崎にある石柱です。磨崖仏の北にある鶴嘴山(つるはしやま)の岩脈が露出して屏風を立てたように直立しているのでそのような名前が付けられています。やや距離をおいて眺める方がよいのでこのような場所に案内が建てられたのでしょうか。

 

● 銘文(正面・西)

 正面「天然記念物觜崎ノ屏風岩 兵庫縣」

 

新宮町船渡墓地内の道標 (平成24年3月13日 追加)

● 県道724を觜崎橋から西に進み、船渡の交差点を過ぎると大きく右にカーブしますが、曲がりきったところの右に墓地があります。この墓地内の片隅にこの道標がありました。道案内の方向は180°回転させるとちょうどよくなると思います。周辺の県道は新しいので、道路工事の際にここに移転されたのでしょうか。この場所への設置の経緯は不明です。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「右 たつの あぼし」

 左面「左 はしさき ひめぢ」

 背面「昭和四年一月建立 三木宇一 /渋谷庄治郎 /尾崎嘉吉」 

 

新宮町馬立の道標 (平成24年3月13日 追加)

● 因幡街道の道筋が正確にわからないまま、墓地から北の方に歩いてみました。栗栖川の馬立橋を渡ってすぐに堤防沿いに細い道を通ると再び県道724に合流しますが、その合流点に新しい道標もどきの案内がありました。ここが因幡街道ということでしょうか?

 

● 銘文

 東面「左 觜崎宿」 

 西面「右 千本宿」

 北面「歴史の道 因幡街道」

 

新宮町市野保の道標 (平成24年3月13日 追加)

● 県道724を北に進むと、交差点に「淡島神社、越部八幡神社、てんかさん」などと書かれた名所案内の看板があったので矢印の集落の方に向かってみました。集落の中心と思われる場所にこの自然石の道標はありました。鳥居の奥は越部八幡神社になります。その手前に淡島神社もあります。越部八幡神社は平安時代に創建された越部庄の鎮守社です。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「あわ志まさ満」

 背面「大正十一年冬 寺田ゆき建之」

 

新宮町新宮の道標 (平成24年3月13日 追加)

● 国道179は新宮町新宮の新宮三差路で北の山崎町(県道26になる)と西の佐用町方面に分岐します。この道標は佐用方面に向かう国道179から北に向かって姫新線を越えた岡村製材所の事務所の前の植え込みの中にありました。牙天神の場所は正確にはわかりませんが周辺にあるものと思われます。かなり古い道標が明治になって再建されたとあります。近くには嘉永三年(1850)創業の和菓子屋さんもありました。

 

● 銘文(正面・西)(1369初建、1872みずのえ・さる再建)

 右面「応安弐歳初建 /明治五壬申歳春再建」  

 正面「牙天神」(下部に小さな文字で)「 是ヨリ /八(以下不明)」

 左面「施主 鎌尾正義 /中井正邦」

 

新宮道の駅の道標 (平成24年3月13日 追加)

● 国道179の新宮道の駅内のショーウィンドの陰に道標が置かれていました。元の位置は、ここにある説明板によれば新宮町井野原の交差点であったようです。断面が変形五角形の珍しい道標です。また、道標としては古い年代のものなので、たつの市の指定文化財にもなっています。因幡街道はここからさらに西に、千本宿を経て平福宿へ向い、平福宿から北に向かうと因幡街道として鳥取方面へ、西に向かうと出雲街道となり津山、院庄を経て松江、出雲方面になります。

 

● 銘文(1702年、みずのえ・うま)

 右面「元禄十五壬午二月」 

 正面「右 たつ乃道」

 左面「左 ひめぢ道」

 

● 平成24年4月15日追記

 本日ドライブで再び訪れてみました。道標は外の駐車場の一角に移設されていたので、写真を入替えました。やはり外にある方が道標らしさが感じられます。

 

佐用町横坂の道標 (平成28年7月2日、追加)

● 因幡街道は、新宮を過ぎると千本宿、三日月宿、平福宿、大原宿・・・となります。三日月から平福へ向かう途中佐用町徳久の太田井橋を渡ると、現在の道筋(国道179号姫路、津山、羽合線)ではまっすぐに新しい徳久トンネルを抜けて国道373号(赤穂、鳥取線)方面に向かいますが、旧街道では右折して千種川沿いに県道53号(宍粟下徳久線)を北行し、500㍍ほどで県道547号(横坂下徳久線)で峠を越えて国道373号線に向かうルートのようです。

● 道標は、この県道547号線が国道373号線に合流する交差点の手前左側の側溝の上に設置(仮置き?)されています。自然石型でしょうか断面はほぼ平行四辺形で、側面から見ると下部が突き出たL字型になっています。

 

● 銘文(正面・北)(1846年、ひのえ・うま)

 右面「弘化三丙午建之(世話人?以下不明)」 

 正面「右 あか本 古んひら /左 ひめぢ いせ 道」

 左面「右 いなば /左 つやま 」

 高さ122㌢、 幅51㌢、 奥行38㌢

 

佐用町口長谷の道標 (平成28年7月2日、追加)

● 県道444号(中三河佐用線)は県道547号より北側にあり、東の山崎方面から国道373号方面への峠道になります。宍粟市鹿沢交差点の道標「左 美作道」を西に進むと、佐用町下三河になり、ここで県道72号〈若桜下三河線)を北に向かいすぐに県道444号線を左折して峠を越えると、平福宿の南で国道373号線に合流します。

● この道標は自然石型で、佐用町口長谷(くちながたに)で県道444号が国道373号に合流する一つ手前の交差点の南東角にあります。ここで交差する南北の道筋は旧373号線と思われます。

 

● 銘文(正面・北)(1791年、い)

 右面「寛政三亥 八月日」 

 正面「右 加ミ可た /左 志楚う」(上方、宍粟)

 左面「  竹田助作」

 高さ110㌢、 幅50㌢、 奥行67㌢    

 

佐用町上三河の道標 (平成28年7月2日、追加)

● 県道443号(上三河平福線)は県道444号よりさらに北のルートになります。上三河から寺坂峠を越えて平福宿の北側で国道373号線に合流します。

● この道標は、県道443号の始点を東へ100㍍ほど延長し、県道72号(若桜下三河線)の旧道との三差路の北西角の民家の塀に埋め込まれています。南面と東面の2面しか確認できません。

 

● 銘文

 南面「右 飛めぢ 道」(右側に「やま左き」とある。姫路、山崎)

 東面「右 ちくさ   (右側に「婦な古し」とある。千種、船越)

    左 い奈者 道」(左側に「を者ら」とある。因幡、大原)

 高さ90㌢、 幅36㌢