(平成25年4月16日)
東海道は、関ヶ原の翌年の慶長6(1601)年、江戸を中心として整備された五街道のなかでも江戸と京、大坂の二大中心地を結ぶ大街道でした。東海道の宿駅の一部は戦国時代からも見られますが、この時期に大部分が成立します。しかし、五十三次が全部完成するのは、寛永10(1634)年になってからのことです。日本橋を起点とし京三条大橋までの間に、品川を最初の宿駅とする五十三次が設けられました。さらに京より伏見、淀、枚方、守口をへて大坂までの四宿もその延長として東海道とみなされていました。(参考:平凡社、「江戸、東海道」)
今回は、京都、三条大橋から大津宿(53次)をへて、中山道との追分のある草津宿(52次)までの道標を探してみました。このページでは、大津までの道標を紹介します。
● ここは、三条大橋の約1㌔ほど西になりますが、今回はここをスタート地点としました。国道367と三条通りの交差点の南東角、京都銀行三条支店のまえにこの道路元標はありました。
● 左の写真の左右の通りが三条通りです。このあたりではせまい道路ですが、平安京の三条大路に相当する道路です。西は嵐山の渡月橋から東は山科区四ノ宮での国道1号線合流地点まで続いています。旧東海道は、三条大橋から東へほぼこの三条通り沿いに進みます。
● 正面・西「京都市道路元標」
● 三条大橋をめざして三条通りを東に向かって歩きます。さすが京都、素通りできない建物や史蹟がいっぱいあり前に進みません。道標探しですが、しばらくは観光案内になります。
● 三条通りの北側にレンガ造りの「京都府京都文化博物館別館」があります。この建物は明治39(1906)年辰野金吾の設計により、日本銀行京都支店として建設されました。現在は昭和63年に平安建都1200年記念事業として創立された京都文化財団により京都文化博物館として使用されています。
● しばらく進むとはなの舞という居酒屋のまえに「池田屋騒動之址」の碑があります。元冶元(1864)年6月、京都三条木屋町の旅館池田屋で謀議中の長州、土州などの倒幕派藩士を、新撰組が急襲し乱闘となり、倒幕派の7人が死亡、20余名が捕縛されました。この事件がその後の倒幕機運を高めたともいわれています。(地図は「池田屋騒動之址」の場所を示します)
● 高瀬川に架かる三条小橋を渡ると木屋町通りに面して「佐久間象山先生遭難之碑」と「大村益次郎郷遭難之碑」を案内する道標が建っています。ここから約200㍍くらいの北(道標には北へ約壱丁となっているが)に二人の遭難碑が並んで建っているようです。これはその遭難碑を案内する道標になっています。
● 開国論を唱えて公武合体に努めていた佐久間象山は、元治元(1864)年7月の夕刻、遭難現場を馬に乗って通りかかったところ刺客に襲われ、斬殺されました。(亨年52歳)
● 兵部大輔大村益次郎は廃刀論で士族の反感を買い、明治2(1869)年9月、遭難碑の近くの旅館で襲われ重傷を負い、11月に死亡しています。(亨年47歳)
● 銘文(正面・東)
右面「昭和十年壱月吉辰」
正面「佐久間象山先生遭難之碑
大村益次郎郷遭難之碑 /北へ約壱丁」
左面「新三浦 /白井凌三建之」
● 遭難之碑の道標から、三条通りを南へ横断したところの瑞泉寺の門前にこの碑がありました。境内には秀次一族49柱の五輪塔があるようです。門前の碑は、伏見周辺でよく目にした三宅安兵衛さん遺志の石標です。
● 豊臣秀吉のおい(姉の子)である秀次は、天正19(1591)年秀吉の養子となり、関白に就任します。しかし、秀吉に秀頼が生まれると次第に疎まれるようになり、文禄4(1595)年高野山で切腹を命じられました。秀次の死後、その家族や家臣40人余も三条河原で処刑されます。遺骸はその場に埋められ塚が築かれ石塔が建てられますが、鴨川の氾濫などで荒廃します。後年、高瀬川の工事中偶然に「秀次悪逆塚」と刻まれた石が発見されました。工事責任者の角倉了以は秀次の菩提を弔うために秀次の法号「瑞泉寺殿」から名を取って、慶長16(1611)年に瑞泉寺を建立しました。
● 余談です。先日テレビで知りました。ここの僧侶、中川学さんはイラストレーターでした。作品は、週刊文春の万城目学さんの連載小説の挿絵で目にしました。
● 銘文(正面・西)
右面「高瀬梁開鑿者 角倉了以翁建之」
正面「前関白 /従一位 豊臣秀次公之墓」
左面「慈舟山瑞泉寺」
背面「當山第十九世潜座代 故三宅安兵衛依遺志建之」
● 三条大橋は、東海道の西の起点ですがそれを示す記念碑的なものは、弥次さん喜多さんの像以外には見当たりませんでした。
● 東詰にある説明板によれば、三条大橋は、いつごろ架けられたかは不明ですが、室町時代前期には簡素な構造の橋が鴨川に架かっていたようです。天正18(1590)年に秀吉の命で石柱の橋に大改修されています。江戸時代には東海道につながる橋として幕府直轄の公儀橋となっています。現在の橋は昭和25年コンクリート製に架け替えられたものです。
● 西詰の高札場跡には天正の大改修で使用された石柱が、また、池田屋事件でついたとされる刀傷のある擬宝珠などがあったようですが、見落としました。
● 東詰の広場には、高山彦九郎皇居遥拝の銅像があります。その台座の揮毫には東郷平八郎の名もありました。高山彦九郎は、江戸時代中期の尊皇思想家で、林子平らと「寛政の三奇人」と言われています。幕府の批判をしたことにより追い詰められ、ついには久留米で自刃します。京に出入りするたびにこのように皇居に向かって遥拝をしていたそうです。この銅像は昭和3年に建設されましたが、昭和19年に金属供出で撤去され、昭和36年に再建されたものです。
歌川広重の三条大橋
● 歌川広重の「東海道五拾三次、京師 三条大橋」の図です。
● 右の写真は西詰にある天正大改修時の石柱です。(平成27年10月30日、追加)
説明板によれば、石柱は現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製です。また、現在の三条大橋の下流側の橋脚にも当時の石柱が使われています。
七月
天正十七年津國御影
吉日
● 三条大橋から、三条通りを東に進むと白川橋になりますが、その東詰でやっと道標に出会いました。これは京都市内に現存する道標では最古の道標になるそうです。道標の文字は彫りも深くしっかりと確認することができました。京都に無案内の旅人のために建てられたようです。ここから左(南方向)に進むと、知恩院、祇園、清水寺と案内しています。
● 因みに姫路市最古の道標は豊富町にあります。この道標より1年旧い延宝5(1677)年になっていますが、風化がひどく文字はほとんど読めませんでした。
● 銘文(1678年、つちのえ・うま)
東面「是よりひだり /ち於んゐんぎおんきよ水みち」
南面「京都為無案内旅人立之
(下部)延宝六戊午三月吉日 /施主 為二世安楽」
北面「三条通白川橋」
● 白川橋からは三条通りの1本南の細い道にコースを変えました。その細い道を東に進んだ神宮道との交差点の北東角にこの道標がありました。道路は、この辺りから東に向かって徐々にのぼり坂になっています。
● 道標は、ここから東南方向にある尊勝院を案内しています。尊勝院は、青蓮院の北東に位置し、同じく青蓮院の飛地境内である将軍塚へ向かう途中にある天台宗のお寺です。元三大師(がんさんだいし)をご本尊とし、元三大師堂と呼ばれることもあります。また、別に青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、京都三庚申のひとつにも挙げられる庚申信仰の霊場でもあります。
● 銘文
東面「昭和十四年七月建之」
南面「寄 進 吉水菓舗 結城専輔 /粟田口住 本多主計」
西面「尊勝院庚申堂参道」
北面「将軍塚登口」
● 尊勝院参道の道標の少し東の道路の南側にこの道標がありました。南方向に細い登り道になっていますが、青蓮院宮御墓がどこにあるのかは確認できません。地図で確認するとこの南の方には、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)や智恩院があります。
● 青蓮院は、青蓮院門跡とも称される天台宗の寺院です。三千院や妙法院と共に天台宗の三門跡とされています。もとは比叡山の一坊であった青蓮坊を平安時代の末期の1144年にこの地に移したそうです。(門跡寺院とは、皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のこと)
● 銘文
東面「← 」
南面「大阪 /皇陵巡拝會」
北面「青蓮院宮御墓 参道」
● この碑は、道案内の表示はないので道標ではありませんが、この先の南方向の元三大師(がんさんだいし)を本尊とする尊勝院を案内する碑だと思います。
● 元三大師は、平安時代の天台宗の僧良源(912~985)で、諡号は慈恵大師(じえだいし)と呼ばれ、比叡山中興の祖として知られているそうです。日本で始めて「おみくじ」を考案したのも元三大師といわれています。
● 左面に「多賀大社」とあったので、その関連を調べてみました。尊勝院住職は、江戸時代から明治時代の神仏分離令(1868年)後の廃仏毀釈まで八坂神社、愛宕社、多賀大社などの別当職(社僧)も兼ねていたようです。
● 銘文(1805年、きのと・うし)
東面「多賀大社」(塀との隙間が狭く、文字がよく確認できない)
西面「文化二乙丑年四月建之」
北面「元三大師」
● さらに東に向かうと道路の南側に粟田神社の大きな鳥居があり、その左下に自然石型の小さな道標がありました。ここから南東方向の華頂山々頂の将軍塚と、その途中の庚申堂(尊勝院)を案内する道標です。
● 庚申堂については、「神宮道三条下ルの道標」で述べたので省略します。
● 桓武天皇は華頂山から京都盆地を眺め、この地が都にふさわしいとの和気清麻呂の進言に従って平安京の建都(794年)に着手されました。さらに天皇は、都の鎮護のために高さ2.5㍍ほどの将軍の像を造らせて山頂の塚に埋めることを命じられました。これが「将軍塚」の由来です。
● 粟田神社は、京の七口の一つである粟田口に鎮座し、古くから旅立ち守護の神として崇敬を集めているそうです。古くは源義経が奥州下向の際に、また近代では皇女和宮の御降嫁の行列などが旅の安全を祈願しているようです。神社の創建は貞観18(876)年で、現存する本殿、弊殿は文政6(1823)年に再建、拝殿は元禄16(1703)年に建設されたものです。また、鳥居の扁額には旧名の「感神院新宮」と書かれています。
● 銘文
東面「吉岡和助 /牧崎春吉」
南面「昭和十三年十二月建之」
西面「将軍塚」
北面「庚申堂 /登口」
● 仏光寺から三条通りに戻り、蹴上(けあげ)の交差点を過ぎ、東山ドラブウェイの高架橋下あたりで峠の頂上になります。ここから少し坂を下ったところに車石と記念碑がありました。
● 記念碑によれば、「平成9年地下鉄が開通し、京阪電車京津線が廃止になり、その軌道を利用して三条通りが4車線化されたのを記念して、三条通りの敷石であった車石を活用し、往年の牛車道を模した広場が完成した」ということです。
● この先の沿道では「車石」を多く見かけるので、各所の車石の説明板を要約します。
京都と大津の間、約12㌔には物資を輸送する牛車の通行が頻繁であった。その通行量は、年間15,894輌(1日平均44輌)の記録もある。しかも大津側には逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり通行の難所でもあった。その通行を容易にするため文化2(1805)年に一万両の工費で牛車専用道路を整備した。道路は2車線で、1車線が車石を敷き詰めた牛車道、もう1車線が人と馬の通行路で、こちらは安全のため1段高くなっていた。
● 石の溝については、京都側の説明板では轍を刻んだ花崗岩とあるが、閑栖寺前の説明板では頻繁な通行ですり減った跡との説明になっている。
● 牛車の広場から、東海道は三条通りと分岐して細い旧道になります。しばらく進むと左側に真新しい「旧東海道」の標石があり、ここで写真を撮っていたら、郷土史家らしい方と出会いました。
● その方の話によれば、この道路は今は狭いが元は3間ほどの幅であった、当時の車石は前の家の庭石や近所の石垣などにもみられる、前の民家は大津算盤元祖の家を移築したもの、民家の西側には牧場があった、もう通り過ぎたが北の方には刑場があり、京阪電車の敷設工事の際には沢山の人骨が発見された等々の情報を教えてもらいました。
● 京都市の資料より 「旧東海道は、粟田口から日ノ岡峠を越えて山科北部の四の宮河原などを経て大津へ向かう道路で、平安京成立以来、東海、東山、北陸方面へ向かう最重要路である。三条街道や大津街道とも呼ばれる。なおこの石標に示される東海道は、碑の山側の細い道で、慶応3(1867)年に現三条通りに付け替えられている。」
● 銘文
南面「旧東海道」
北面「昭和六十三年五月 京都洛東ライオンズクラブ建之」
● 大乗寺参道入口のすぐ南が三叉路になっていますが、その角のブロック塀の中に2基の道標がありました。右の道標(中の写真)は、ここから4㌔ほど南東方向に位置する妙見宮を、左の道標はその中間くらい(山科区西野山欠ノ上町)にある花山(かざん)稲荷を案内しています。
● 妙見宮については、「京都伏見周辺の散策」の「山科区大塚、妙見宮の道標」に記述しているので、ここでは省略します。
● 花山稲荷は、伏見稲荷大社の「元宮、母宮、奥宮」とよばれ、商売繁盛の神様として広く知られています。平安時代には刀工三条小鍛冶宗近が、元禄のころには大石良雄が山科陰棲時代に、それぞれ祈願に来ています。
● 妙見道の道標銘文
東面「右 妙見道」
西面「二条講中」
● 花山稲荷の道標銘文
東面「右 かざんいなり道」
西面「中川直郎 /亀山正七」
● 大乗寺付近からダラダラと続く下り坂を歩くと再び三条通りに出ます。旧東海道は、三条通りをしばらく進み、東海道本線の高架下を過ぎた次の交差点を左折します。京都薬科大学を過ぎた三叉路に大きな道標がありました。「史跡 五条別れの道標」という標柱が添えられています。
● 右は、ここまできた三条通りですが、左は、五条大橋、東、西の本願寺、今熊野、清水寺、方広寺の大仏を案内しています。
● 方広寺の大仏は、江戸時代には日本三大大仏の一つといわれていました。地震で倒壊したり、失火で焼失したりしていますが、この道標の建った頃は木像の大仏があったのかもしれません。文禄4(1595)年豊臣秀吉は、東大寺の大仏に倣って建設を計画し、ほぼ完成しましたが、翌年地震により倒壊しました。慶長17(1612)年秀頼により再建されますが、寛文2(1662)年再び地震で破壊、木造で造り直されますが、寛政10(1798)年落雷により灰燼に帰します。その後、天保年間に木像で肩から上のみの像が寄進されますが、昭和48年失火により焼失しました。大仏殿の跡は、明治になって豊国神社が建設されています。
● 銘文(1707年、ひのと・い)
東面「左ハ 五条橋(下部)ひ可”し /にし 六条大佛
今ぐ満きよ水 道」
南面「宝永四丁亥年十一月吉日」
西面「願主 /沢村道範」
北面「右ハ 三条通」
● JR山科駅を過ぎたあたりのビルの前に「東海道」の標石がありました。標石の旧い写真では三品菓舗という和菓子店の前に建っていますが、現在は新しいビルの前になっていました。建物と標石の間には車石が置かれています。
● 銘文
東面「京三条はし迄一里半」
南面「東海道」
西面「大津札の辻まで一里半」
北面「為往来安全 三品英造建之 /昭和二十三年十一月日」
● 毘沙門堂の大きな看板のある三叉路の南のアパートの入口にこの旧い道標はありました。ここから約1㌔(道標では8丁)北の安朱稲荷山町の毘沙門堂を案内しています。
● 毘沙門堂は、天台宗の寺院で、護法山安国院出雲寺とも称されています。本尊は、毘沙門天で天台宗京都五門跡の一つで毘沙門堂門跡とも呼ばれています。創建は大宝3(703)年で、文武天皇の勅願で僧行基によって開かれています。
● 銘文(1822年、みずのえ・うま)
南面「文政五年壬午三月 /皇都施主 山田又左衛門綏正」
北面「毘沙門尊天 (下部) 是ヨリ /北江八丁」
● 諸羽神社鳥居の東に、京洛六地蔵の一つ山科廻地蔵とも呼ばれる徳林庵があります。その前に2基の石標がありました。
● 一つは、同じく京洛六地蔵の伏見地蔵(伏見区桃山西町の大善寺)を案内する道標です。北面が別の石柱に密着し、下部も埋設しているので全体はわかりません。施主は「五条分れの道標」の願主沢村道範氏と思われます。 山科廻地蔵は、小野葟(たかむら)により852年に作られた六体の地蔵尊のうちの一体で、はじめ伏見六地蔵にありましたが、後に後白河天皇は都の守護、往来の安全、庶民の利益結願を願い、平清盛らに命じ、1157年街道の出入口6ヶ所に分置され、以後、山科地蔵は東海道の守護神となりました。
● もう一つは、ここから北200㍍ほどのところの十禅寺にある人康(さねやす)親王の墓を案内しています。人康親王(831~72年)は、目を患い山科に隠棲していたので、この辺りにはゆかりの地も多くあります。また第54代仁明天皇の第4皇子であったことから「四ノ宮」の由来にもなっています。こちらも粟田口にあった「青蓮院宮御墓参道」の道標と同じ団体名になっています。
● 伏見地蔵の道標銘文(1703年、みずのと・ひつじ)
東面「伏見六ぢざう・・・」
南面「南無地蔵菩薩・・・」
西面「施主 沢村氏 /道・・・」
北面「元禄十六癸未・・・」(未癸は横書き)
● 人康親王御墓の道標銘文
南面「人康親王御墓」
北面「大阪 /皇陵巡拝會」
● 地蔵堂の北の一角にある「人康親王・蝉丸供養塔」は、南北朝時代の珍しい宝筺印塔です。
平安時代より琵琶法師たちが集まり人康親王たちを供養したのは、親王自身も目を患い四ノ宮に隠棲され、盲僧たちを保護されたことによります。琵琶法師たちの集まりは、明治4年まで続きましたが、長い時間のなかで彼らの祖神である人康親王と蝉丸が供養塔を軸に同一化ます。(京都観光ナビHPより)
● 四ノ宮を過ぎると東海道は、大津市横木1丁目になります。再び三条通りに合流する手前の三叉路の北側に大きな道標がありました。これが「小関越の道標」です。
● ここから小関峠を越えて、大津市長等地区の小関町に続く道を小関越えと呼んでいます。東海道を大関越えと呼んだの対して付けられた名称です。京都から大津の町中を通らずに北陸へ向かうための近道(間道)として利用されました。また、観音巡礼の札所三井寺から京都今熊野への巡礼道でもありました。(大津市歴史博物館HPより)
● 銘文(1822年)
東面「願諸来者入玄門」
南面「三井寺観音道」
西面「小関越」
北面「文政五季 京都 発起
定飛脚問屋 江戸 (商標あり)三店 心相禅門
十一月建之 大坂 」
● 東海道は、三条通りへ出てすぐに国道1号線を横断しますが、三条通りはここで国道1号線と合流します。歩道橋を渡るとすこし登り坂になりますが、民家の石段の端に「牛尾山」と書かれた道標がありました。
● 道標の西の道路を南に進むと「京都伏見周辺の散策、追分から墨染」の「山科区音羽珍事町の牛尾山の道標」の所につながります。牛尾山は、ここから4㌔ほど南東にある牛尾山中腹の牛尾山法厳寺(ほうごんじ)への道になっています。
● 銘文
西面「乾組(横書き) 燈明講・・・」
北面「牛尾山・・・」
● 閑栖寺(かんせいじ)の特徴的な山門の前に「東海道」の道標と「車石」がありました。この辺りの東海道には牛車の通行のために「車石」が敷設されていましたが、明治期に撤去されました。敷設当時の資料をもとに境内の一角に牛車道が再現されています。
● 閑栖寺は、浄土真宗・真宗大谷派の寺院で、天文23(1554)年に創建されました。元禄のころ焼失していますが、長屋門の上に太鼓楼のある独特の山門は、元文3(1738)年に完成したものです。
● 銘文
東面「東 逢坂関」
南面「東海道」
西面「西 京三条」
● 閑栖寺のすぐ東の三叉路が伏見街道との追分です。道標の左方向の道路が、伏見、淀、大坂方面への伏見街道(一部奈良街道ともいう)で、この道路から京都市山科区になります。
● 昨年10月にここから伏見まで歩いているので、詳細は「京都伏見周辺の散策、追分から墨染まで」の下部にある「大津市髭茶屋追分の道標」を参照下さい。
● 銘文
東面「みぎハ京ミち」
南面「ひだりハふしミみち」
西面「昭和廿九年三月再建」
北面「柳緑花紅 法名 /未徴」
● この辺りは道路の南側(右側)が京都市で北側(左側)が大津市です。道路の真ん中が境界になっています。滋賀県の標識からは境界は道路の南になりますが、この先の月心寺付近までは京都市の境界線が道路と並行しています。(地図は、右の写真、京都、大津の標識の位置)
● 名神高速道の手前に、本門佛立宗・長松山佛立寺という寺院があります。東海道はその先で国道1号線に重なります。この辺りの山間には、名神高速道、国道1号線、京阪電車京津線が並行しています。
● 本門佛立宗は、長松清風(1817~1889)によって開かれた、日蓮を宗祖と仰ぐ法華宗の一派で、比較的新しい宗教のようです。
● 山間の国道1号線はダラダラと上りが続きます。右手に石垣に囲まれた月心寺という寺院がありますが、その手前に自然石型の道標がありました。「右一里丁」とあるのは、ここから西200㍍くらいの所に一里塚があり、その辺りの旧町名が今一里町であったということです。
● 月心寺は、現在は臨済宗の寺院ですが、かっては走井の茶屋として繁盛していたそうです。歌川広重の「東海道五十三次」にも走井の茶屋で旅人が休憩している様子が描かれています。月心寺の境内には今も枯れることなく名水が湧き出ているということです。国道1号線や東海道本線の開通により街道が寂れ、茶屋も廃れますが、それを惜しんだ日本画家の橋本関雪が別邸とし、その後現在の寺院になったということです。
● ここの名水と近江の米で作られる「走り井餅」は、大津の名物となっています。しかし、「やわた走井餅老舗」のHPによれば、明治のころから八幡市に移転しています。また、この先(京阪大谷駅手前)に「元祖走井餅本家」の標柱がありましたが、「走り井餅本家」のHPでは大津市横木町に店舗があるようです。
● 道標の東の小川は、元禄期の地図には「走井谷」として記載されています。
● 北面「右 一里丁 /左 大谷町」
歌川広重、東海道五十三次「大津宿」
● 走り井の茶屋と共に清水や牛車も描かれている。
● 月心寺の東隣に「大津算盤の始祖 片岡庄兵衛」という新しい碑がありました。昭和のはじめまで同家の子孫がここに住まわれていたと書かれています。 この辺りは、いろんな技術者が密集していたらしく算盤のほかに走り井餅、大津絵、大津針などの発祥の地にもなっています。
● 追分の住人片岡庄兵衛が、長崎奉行に随行して長崎に行き、同地で明人から算盤の見本と使い方を習い、帰京後に日本人に適した形に改良して、慶長17(1612)年に算盤の製造を始めています。江戸幕府からは「御本丸勘定方御用調達」に任命され、算盤の家元になり制作方法や価格の決定を一任されました。明治になると追分の技術者が密集した地域が、鉄道や道路の整備のため立退きを命じられ、産業も廃れました。現在、生産量の8割を占める播州算盤は、天正年間、秀吉の三木城攻めの際に大津へ避難してきた人々が技術を習得し持ち帰ったものとのことです。
● 京阪大谷駅を過ぎると左手に蝉丸神社の鳥居が見えました。蝉丸神社は、万冶3(1660)年、関蝉丸神社を勧請して今の社殿が建てられました。蝉丸を祀る神社は、ここのほかに関蝉丸神社上社、関蝉丸神社下社の三社があります。ここは関蝉丸神社の分社です。
● 蝉丸は、醍醐天皇の第4皇子といわれる盲目の琵琶法師です。
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
● 旧道が再び国道1号線に合流するところが峠の頂上と思われます。ここに関所を模した柵が造られその先に「逢坂山關址」の碑と「逢坂常夜燈」が並んでいます。しかし関所の位置は、関蝉丸神社上社から関寺(現在の長安寺辺り)までいろんな説があり特定されていないようです。
● ここは、都と東国、北国を結ぶ東海道、東山道(のちの中山道)、北陸道の三つの街道が集中する交通の要衝でした。そのため平安時代中期以降は、不破関、鈴鹿関と並ぶ三関の一つになっていました。最初に関がおかれたのは、大化2(646)年で、一旦廃止されますが、平安京遷都以後再び設置されています。
● 貴族や武将はじめ文人墨客の多くがここを通過し、この関や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に残されています。なかでも蝉丸の歌は百人一首にもあり、広く知られています。
● 逢坂関址からは下り坂になり、しばらく進むとまた「逢坂常夜燈」がありました。常夜燈の先は逢坂山弘法大師堂があり、前に「弘法大師御舊蹟」の碑があります。このお堂の前で歩道が途切れるので国道1号線を横断しなければなりませんが、信号も無く交通量も多いので横断のタイミングが難しい。
● その先の左手には「関蝉丸神社上社」の鳥居が見えます。そして名神高速道の下を通り国道1号線を再び横断して、左手の国道161号線に分岐します。上の名神高速道は何度も車で通っていますが、こうして下から眺めると、車では一瞬ですが大きな構造物に支えられているのですね!
(地図は、弘法大師堂前の逢坂常夜燈の位置を示す)
● 常夜燈の刻銘(正面・東)(1794年、きのえ・とら)
右面「施主 大津 /米屋中」
正面「逢坂常夜燈」
左面「時(異体字)寛政六年 /甲寅十一月建之 願主(下部に4名の名前)」
● 逢坂峠を下り、大津の市街地の入口辺りにこの安養寺があります。門前に「円満院宮/三井寺南別所蓮如上人舊跡」と書かれた碑と、近くに「逢坂」の由来を説明する標柱が建っていました。
● 逢坂山安養寺は、浄土真宗の寺院で、本尊は行基作の阿弥陀如来座像です。古くは関寺とも呼ばれていました。開基は貞観3(861)年で三井寺円満院に属していましたが、明治になって現在の宗派に改めています。寛正6(1465)年、蓮如上人が比叡山の衆徒に襲われた際、その身を救ったという「身代わり石」が境内にあります。
● 「逢坂」は、「日本書紀によれば、神功皇后の将軍武内宿禰と忍熊王がこの地でばったり出会ったことに由来すると伝えられています。この地は京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され、和歌などにも詠まれる名所として知られています。」
● 国道161沿いに石燈籠と「關蝉丸神社」の碑と「音曲藝道祖神」の碑が並んで建っています。神社は京阪電車の線路の西側になります。
● 関蝉丸神社は、上社、下社と分社とされる蝉丸神社の三社を併せて蝉丸神社と呼ぶこともあります。社伝によれば、弘仁13(822)年に小野岑守(みねもり?)が、旅人を守る神とされる猿田彦命、豊玉受姫を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのが始まりとされています。平安時代中期の琵琶法師で歌人でもある蝉丸が逢坂山に住み、その没後上社と下社に祀られました。天禄2(971)には、綸旨を下賜され、以後歌舞音曲の神としても信仰されるようになりました。 それにあやかったのか(?)近くにはカラオケサロン「中高年」という店がありました。
● 京阪電車と国道161が交差する道路の東側に「大津宿本陣跡」の説明板と「明治天皇聖跡」の碑がありました。
● 大津宿は、東海道と北国街道の合流地点であり、また湖上交通の拠点でもあることから繁栄を極め、本陣2ヶ所と脇本陣1ヶ所のほか多くの旅籠がありました。この場所は本陣の一つ大坂屋嘉衛門(大塚本陣)の跡ですが、その遺構は残っていません。
● 「明治天皇聖跡」の碑は、明治天皇や昭憲皇太后が本陣を度々利用されたことを示すもので、その詳細については横の小さな石碑(昭和九年十二月)に聖跡の記録があります。
明治元年九月二十日 明治天皇御東幸之際御駐泊
同年十二月二十一日 明治天皇御還幸之際御駐泊
同二年三月七日 明治天皇御東幸之際御晝食
同年十月五日 照憲皇太后御東啓之際御駐泊
以上大塚本陣當時
などと記録されている。
● 明治天皇は、明治元年9月20日に京都を発ち、10月13日にはじめて東京(この年7月、江戸を改め)に入られますが、12月8日一旦京都(12月22日着)に戻ります。翌年3月7日再び東京(3月28日着)へ向かい、東京城(前年江戸城を改称)を皇城とし、事実上の皇居となります。また、皇后陛下も明治2年10月24日東京に入られました。「宮城」と称されようになったのは、明治21年10月に明治宮殿(昭和20年空襲で焼失)が落成してからのようです。
● 明治維新、それは近代国家の基礎を建設するための激動の時代でした。その象徴として日本の中心を京都から東京へうつす、そんな一大事業の一側面をこの石碑は物語っていると思います。
● 京町1丁目の交差点の西南の角に「大津市道路元標」があります。東海道は南から来て、この交差点を右折して東に向かいます。また交差点を西に向かうと北国街道になります。この交差点は、両街道の合流点で江戸時代には大津宿の中心であり、大津随一の賑わいを見せたところで、高札場もあり、町名も「札の辻」となっています。
● 東海道を東に進み、中央二丁目の交差点を過ぎた次の十字路の南西の角に「此付近露国皇太子遭難之地」の碑があります。明治24年のいわゆる大津事件の場所を示す石柱です。
● 大津事件とは、明治24年、シベリア鉄道の起工式のため来日中のロシア皇太子(後のニコライ2世)が、京都から琵琶湖観光を終えて帰る途中、警官津田三蔵にサーベルで斬られ負傷した事件です。当時まだ発展途上にあった日本の政府は、ロシアの報復を恐れて犯人の死刑を主張しましたが、大審院(最高裁判所)は刑法の殺人未遂の適用を主張し、結果は無期徒刑となりました。明治憲法施行後の政府に対抗して、司法権の独立に大きく寄与したという事件でもありました。