(平成23年4月24日)
ここでいう有馬街道は、姫路から有馬温泉までの街道です。三木市の資料によると「羽柴秀吉の三木城攻めの頃(天正6~8年、1578~1580)から湯の山街道の名は顕著になりました。兵糧のために有馬への道を整備し、さらに姫路に至る道も整備しました。江戸時代には参勤交代の大名や西国からの湯冶客の往来でにぎわいました。」とあります。
街道は、三木市付近では姫路方面へは「ひめぢ道」、有馬方面へは「湯の山街道」と呼ばれています。三木市の東の御坂からは北廻りの「淡河道」、南廻りの「山田道」の二つのルートに分かれています。今回は淡河道を辿りました。
姫路市花田町五霊天神社前の道標 (平成23年4月29日 追加)
● 姫路市内から国道2号線の市川橋を渡り、一本松の交差点を北に向かうと五霊天神社の前に出ます。この神社の鳥居の前に道標がありました。かってはこの辺りに山陽道の一本松の渡しがありましたが、道標が設置されたころには橋が架けられていました。山陽本線も開通していました。山陽道は神社から南方面へ、また有馬街道は神社の北側を東に向かっており、数百㍍東で丹波道と分岐しています。この道標は、有馬街道のスタート地点の道標ということになります。
● 銘文(正面・南)
右面「明治三十六年十一月」
正面「右 大阪 神戸」
左面「左 丹波 有馬」
● 平成23年10月13日追記、この道標は明治36年陸軍特別大演習の際、市川橋東袖跡の旧国道と有馬街道の分岐に建てられたもの。また、市川橋は明治8年木製のものが架けられたが、同41年には鉄橋が架けられ、現在の橋は昭和16年に建造されている。(姫路市文化財シリーズより)
姫路市御国野町国分寺の道標 (平成23年4月29日 追加)
● 五霊天神社の北側の細い道を数百㍍東に進むと、用水路の横にこの道標がありました。道標の前の東西の道路が有馬街道です。少し西の南北の道路は丹波道で、北の「庄」で国道372号線に合流し、丹波篠山方面に行けます。また、道標の前を南に進むと播磨国分寺、山陽道御着方面へ行けます。
● 銘文(正面・南)
右面「東 ありま」
正面「(地蔵坐像)南 御着」
左面「西 ひめじ」
背面「北 たじま」
● 平成24年1月31日追記、「姫路市文化財見学シリーズ32」によれば、この道標の近くに丹波道の「下の茶屋」あったようです。またここから北の「庄」交差点の手前で但馬道と交差しますが、ここに「上の茶屋」があったと書かれています。
姫路市御国野町国分尼寺跡 (平成23年4月29日 追加)
● 国分尼寺は説明板によると、「天平13年(741)聖武天皇の詔により、鎮護国家のために国ごとに設置が決められた国分ニ寺の一つである。この周辺から多数出土した古瓦などが、この辺りが国分尼寺跡であることを傍証している。」とありました。
● この辺りの風景については、司馬遼太郎の「播磨灘物語」を引用します。
「この辺りの平野は印南野(いなみの)と上古にいわれた。野のあちこちに多くの丘陵が隆起している。丘陵と丘陵がそれぞれ野を分割するように抱きかかえ、その野の一つずつに名前がついていた。御国野(みくにの)、深志野(ふかしの)などという野の名称もあって、それらの野の名前が、上代の開墾時代の草遠き風景をほのかに連想させる。」
姫路市御国野町深志野、墓地の道標 (平成23年4月29日 追加)
● 有馬街道を東に進みます。天川を渡り、明源寺を過ぎたあたりで三叉路になりますが、その正面は広い墓地になっています。墓地の入り口にひときわ目立つ石室型の墓がありました。石室外側の各面が道案内になっています。
● 銘文(正面・北)
右面「北 ほつけ山 /南 ごちゃく」
左面「右 ひめじ /左 ありま」
背面「当村中(横書き) /世話人(横書き) /大正十三年十二月 /
中田常松 /東喜之弥 /長谷川為吉 /竹中カメノ /山本マサ /
井上ミツキ」
姫路市御国野町深志野、地蔵台石の道標(平成27年5月25日、追加)
● 安永五年の道標が中の地蔵坐像の台座にある、と太子町の方からメールをいただきました。早速確認に行きました。側面はほとんど見えません。正面の部分のみかろうじて確認できました。
● 銘文(正面・西)(1776年、ひのえ・さる)
右面「安永五丙申年 /八月〇〇」
正面「右 御着道 /為釈清休菩提 /左 法花山道」
左面「右 ひめじ /左 ありま」
三木市別所町石野、覚法寺の道標 (平成29年1月25日、追加)
● 加古川市内の有馬街道については「北条街道の道標」の下部に「加古川市内の有馬街道」としてまとめた。
● 覚法寺の登り口の東側に沢山の石造物が並んでいますが、左から2基目がこの道標になります。風化が激しく銘文はほとんど読めません。三木市の資料では次のようになっていました。
● 銘文(正面・東)(1790年)
右面「寛政ニ年戌三月日 」
正面「 右やま
(仏像)奉供養〇國
左ありま 」
左面「同行二人當村 三右衛門 /彌兵衛」
高さ76㌢、 幅20㌢、 奥行18㌢
● 加古川市八幡町宗佐の道標から街道を東に向かうと小高い丘を越えます。さらにしばらく進むと覚法寺があり、その少し東の三叉路にこの道標はあります。大きな「左」はよく目立ち、どっしりとした感じの道標です。
● 銘文(正面・西)(1823・ひつじ)
右面「文政六未三月 四國西國供養・・」
正面「左 三木 /ありま・・」
左面「従是西 国包十八丁 姫・・ /加古川二里半 高・・」
(下部は埋没、「姫・・」は姫路、「高・・」は高砂を表していると思われる)
● 平成29年1月25日、追加
再訪してみるときれいに整備されていたので掲載しました。
埋没していた部分も見えています。感謝です!
● 正面と左面の埋没部は次の通りでした。
正面「左 三木 一里 /ありま 八里」
左面「従是西 国包十八丁 姫路五里半 /加古川二里半 高砂三里半」
● 街道を東に進みます。御酒神社を過ぎ、小さな川を渡ると地蔵堂の横に小さな道標がありました。左有馬となっていないのは、ここが有馬街道と別府、二見方面への分岐点のようですが、浜街道方面への詳しい道筋は確認できません。南の相野地区にはかって旧陸軍の三木飛行場があった。
● 銘文(正面・北)(1843・う)
右面「天保十四卯三月」
正面「右 ひめじたかさご /左 遍ふ婦たみ」(別府二見)
左面「施主 西國同行」
● 平成29年1月25日、追加
この道標も整備されていました。台座が新設され、植込みも刈られて街道からもはっきり確認できます。
● 江戸時代から明治時代にかけて美嚢川には、「上津」「中津」「下津」という三ヶ所の舟着場があり、そのうちの一つがこの辺りの河川敷にあった「下津舟着場」です。
● この道標は、舟着場近くの鍵型の辻にあり、加西市の法華山一乗寺(西国三十三所26番札所)への道しるべになっています。西国巡礼を終えた人たちが明治の中ごろに建立したそうです。
● 銘文
東面「右 ほっけ おの /やしろ」
南面「左 ひめじ」
西面「同行十三人」
● 街道をさらに東に進むと三木市の中心部に差し掛かります。三木城址の少し手前のレストランの玄関先に道標がありました。この道標から西方面は「ひめぢ道」東方面が「湯ノ山街道」、そして南方面が「あかし道」と呼ばれているようです。この道標は、三木市では一番古い道標になるます。ここには「あわ屋」という店があり、五代目の頃、道標に因んで「立石屋」という薬局にかわりました。ところが、そのころこの道標の劣化が激しくなり、店の象徴である道標が痛むのを惜しみ、当時の百円を費やして再建したそうです。
● 道標の北にある旧玉置家住宅は国登録有形文化財で文政九年(1826)に建てられた母屋と土蔵が残っています。当時の切手札と金銀を交換する切手会所として開設されていました。姫路や有馬、明石への交通の要衝であったことをうかがわせます。
● 銘文(正面・北)
右面「宝暦十一年(1761)三木町西国同行中建設 /
大破傾キタルヲ以テ昭和七年十一月再建 小林」
正面「右 ひめぢ道」
左面「左 あかし道」
● 本町交差点にある「三木町道路元標」です。交差点に出て素早く写真を撮らなければならないので、多少傾いています。
(令和元年12月10日追記)
この道路元標は、少し北の三木市中央公民館の駐車場内に移設されています。
三木城址
● 三木城は室町時代の十五世紀後半、別所則治によって築かれ、以後別所氏の居城となりました。天文年間には山陰の尼子氏や三田の有馬氏に攻められましたが、落城を免れています。天正六年(1578)五代目城主別所長治のとき、羽柴秀吉の軍に包囲され、一年八ヶ月に及ぶ兵糧攻めに遭い、天正八年一月十七日、城主一族は領民の命を救うために自刃して三木城を開城しました。その後は秀吉をはじめその家臣が次々と城主として入れ替わりました。江戸時代になって明石藩に編入されますが、元和三年(1617)に幕府の一国一城令により廃城となりました。天守跡には別所長治の辞世の碑「今はただうらみも/あらじ諸人のいのちに/かわる我身を思へば」があります。
● 現在では、城下はナメラ(滑原)商店街となっていますが、ここもやはりシャッター通りでした。
● ナメラ商店街を通り抜けると、湯の山街道と東條街道の分岐になります。この舟着場跡は東條街道に入ってすぐのところにあります。
● 江戸時代の三木川(現在の美嚢川)は、明治になって馬車による陸運になるまで、川舟(高瀬舟)による諸物資の運搬が盛んでした。上津は街道筋庶民の物資の集積地で、中津は奉行所の専用舟着場、下津は宿場まちの庶民の流通品の集積地でした。
● 応仁の乱(1467~77)後、避難していた別所一族たちが、元の領地に帰り領主となったとき、一族家臣旗本たちは別所則治氏を頭領として崇めました。明応元年(1492)別所氏は、三木の丘陵に釜山城を再築し、三木郡や加東郡に多くの領主たちを配置し、その領土を安泰にしました。これらの領土間の連絡のために整備されたのが東條街道です。
● 三木市本町一丁目交差点の南に大きな地蔵堂があります。中には十四体の石仏があります。それらの石仏の一番左、十五番目にあるのは角柱型の道標でした。周辺から移されたものと思われます。
● 銘文(正面・北)
正面「(地蔵坐像)左 あかし /こばやし」
● さらに街道を東に進むと、戎神社を過ぎたところで真新しい「街道茶屋」が正面に見えます。この茶屋のまえに道標があります。平成8年6月交通事故で折損しましたが、よく修復されています。湯の山街道は茶屋の正面に出て、右側に通じています。吉川方面への分岐点になります。
● 銘文(正面・西)
右面「三木行」
正面「右 阿里万 /左 よか王」(有馬、吉川)
左面「大塚町中」
三木市大塚2丁目の子午線石柱 (平成23年5月4日 追加)
● コンビニの前に大きな石柱がありました。
● 銘文(正面・南)
右面「東経百三十五度」
正面「大日本中央標準子午線」
左面「美嚢郡聯合青年團」
背面「昭和二年一月」
神電恵比須駅前交差点の道標 (平成23年5月4日 追加)
● この交差点で県道38号三木三田線は旧道とバイパスに分岐します。その交差点の旧道側に地蔵堂と道標がありました。地蔵堂の中にも道標があるようですが見えません。新しい道標ができたので、お堂の中に入れられたようです。(三木の道しるべ)
● 外の道標銘文(正面・西)
正面「(地蔵坐像)右 広野 /左 志染」
● 地蔵堂中の道標銘文(正面・西)
右面「明治三十ニ年二月」(三十は縦棒三本に横棒)
正面「右 広野 兵庫 /左 志染 有馬 道」
左面「宿原村六万 /施主 筒井・・・」
三木市平井、竹中半兵衛の墓 (平成23年4月24日 追加)
● ここは湯の山街道の約2㌔ほど北になります。平井山ふもとに白壁に囲まれた立派な墓がありました。
● 一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、はじめ斉藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し殊勲を立てました。しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み一時京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配し、この地に帰ってきました。けれども病魔には勝てず、天正七年六月十三日、三十六歳の若さをもって永歿しました。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体に取りすがり号泣したといわれています。と境内の説明板にありました。
三木市志染(しじみ)町志染公民館前の道標 (平成23年5月4日 追加)
● 公民館の入り口に道標らしい石柱がありました。風化が激しく全く文字はみえません。三木市の資料によれば以下の文字があったようです。
● 銘文(正面・西)
右面「干時 天保・・・」
正面「右 ありま /左 大たに」
左面「施主当邑 石工・・・」
● 30年6月再撮影
周辺の草刈りが行われて、左面にかろうじて「石工」の文字が見えます。
三木市志染町、北廻りと南廻りの分岐点 (平成23年5月4日 追加)
● 湯の山街道は、この御坂東の交差点手前から右に行くと、南廻りの「山田道」、まっすぐ進むと北廻りの「淡河道」になります。街道は南北朝以来山田道が本道となっていましたが、この街道筋は山田川沿いのために徒歩渡しが多く治水も困難であったため、秀吉時代に淡河に宿場が設けられてからは「淡河道」が本道となったようです。
志染町三津田の道標群、3基 (平成29年11月25日、追加)
● 県道85号神戸加東線の満願寺南交差点を東へ約50㍍進むと、旧い交差点の左側に石造物群があります。コンクリートの台の上に8基ありましたが、その内の3基が道標(道標Bの左うしろに上部のみの小さな道標がある)として確認できました。コンクリートの台の様子から元々ここに設置されていたのかどうかはわかりません。
● いずれの道標も右は有馬、左は三木方面を案内しています。「三木市の道しるべ」(平成八年、三木市教育委員会)に次のように記述されていました。「右の細い道を北上すると、満田城址の近くを通り抜け戸田へ、そして旧淡河城址へ出る」と、また、南に向かうと衝原→箕谷→有馬のルートになるようです。
● 道標(A)←道標群(右写真)の右端、銘文(正面・南)
右面「明治十八年建之」
正面「 右 有馬三田
(仏像坐像)奉納四國八十八ケヶ所順拝供養塔
左 三木小野」
左面「施主 當村 住野作太郎 /井本シゲ」
高さ 63㌢、 幅22㌢、 奥行15㌢
● 道標(B)←道標群の中ほど、銘文(正面・南)(1789年、とり)
右面「寛政元酉四月日」
正面「右 ありま /奉 西國供養 道 /左 みき」
左面「同行五人」
高さ74㌢、 幅21㌢、 奥行11㌢
● 道標(C)←道標群の左手前、銘文(正面・南)(1843年、う)
右面「天保十四卯四月日」
正面「右 ありま /(梵字) 道 /左 みき」
左面「西國三十三所供養 /同行九人」
高さ62㌢、 幅21㌢、 奥行21㌢
神戸市北区淡河町八幡神社西の道標 (平成23年5月14日 追加)
● 県道38号線の御坂東交差点をまっすぐ東に北廻りのルートを進みました。緩やかな坂を上った頂上付近で山陽自動車道の下を通り過ぎます。ここから神戸市北区になります。下り坂の途中で県道を左折して、旧道を進むと五差路になりますが、その北の隅にこの道標はありました。右(東)へ進むと八幡神社、淡河方面になります。
● 銘文(正面・南)
右面「明治十四年一月建之」
正面「(仏像)右 有馬三田中山寺 /左 小川吉川清水今寺 道」
左面「施主 當村 安福伊右門 /安福松兵衛 /衣笠茂兵衛」
神戸市北区淡河町の本陣跡と道路元標 (平成23年5月14日 追加)
● 湯の山街道の淡河宿の本陣跡の碑です。右側に「淡河村道路元標」もありました。
● 銘文(正面・南)
正面「湯乃山街道 淡河宿本陣跡」
左面「昭和五十年十一月淡河本町 /史蹟を守る会」
神戸市北区淡河町本陣東の道標 (平成23年5月14日 追加)
● 本陣跡から少し東の三叉路にこの道標はありました。街道沿いの正面は電柱の陰になります。上部に示された方角は、現在地の方位ではなく進む方角を表しています。
● 銘文(正面・北)
右 面「南 山田兵庫」
正 面「東 有馬大坂」
左 面「西 三木姫路」
背 面「明治十五壬午年 /奉納三十三所巡拝供養 /第十一月中旬建之」
背面下部「同行 村上祐三郎 /稲垣直市 /岸本虎一 /武野惣左ヱ門 /
永井忠兵衛 /戸田才一郎 /山本清〇〇/常見伝〇〇 」
神戸市北区淡河町萩原の道標、2基 (平成23年5月14日 追加)
● 県道38号線から少し北に入った旧道沿いの古い民家の前に2基の道標がありました。右の大きな道標は100㍍ほど東にあったもので、工事の際の一時捨てられていたようですが、地元の方々の努力でここに移設されたということです。北へ行くと南僧尾、北僧尾、吉川を経て清水寺へ行くことができます。
● 左の道標銘文(正面・南)
右面「北 吉川きよ水」
正面「右 ありま三田 /左 三木ひめじ」
左面「大正九年」
背面「願主 常深こまつ」(後ろのお宅が常深家です)
● 右の道標銘文(正面・南)(1804年、きのえ・ね)
右面「文化元甲子三月建之」
正面「右 山田ひょうご」
左面「左 ありま大坂」
背面「施主 木津村 伊左ヱ門 /北畑村 仲次郎 /北萩原村 兵太夫 /
同所 〇兵ヱ 」
神戸市北区淡河町野瀬の道標 (平成23年5月14日 追加)
● 坂の多い街道ですが、好徳小学校まえから県道38号線に出たあたりから平坦な道路が続きます。粟島神社前のバス停の手前にこの道標はありました。
● 銘文(正面・南)
正面「粟嶋神社参詣道」(「参」は旧字)
左面「是よりニ丁」
背面「昭和十年三月建之」
神戸市北区淡河町弓ノ木交差点の道標 (平成23年5月14日 追加)
● 地図で確認すると、この交差点は横Y字形の三叉路が逆T字形の三叉路に整備されたように見えます。横Y時の旧道に二体の地蔵像がありますが、後方の地蔵の光背左部分に道案内が示されています。右部分は欠損しています。
● 銘文(正面・東)
正面「左 みきみち」(右側は「右 よかわみち」と推定されます。)
神戸市北区八多町屏風の道標 (平成23年5月14日 追加)
● 県道38号線西畑バス停を過ぎたところにこの道標はありました。施主は珍しく女性三人の名前があります。道標の右の細い道は、南の金剛童子山を越えて、山田町下谷上から兵庫への道筋の様です。
● 銘文(正面・北)
右面「右 山田兵庫 /スグ有馬大坂」
正面「(仏像)奉納(横書き) 西國三十三所順礼供養」
左面「スグ淡河三木」
背面「明治廿五年九月建之」
(下部)「西野トミ /村上ヤエ /池尻ジュウ」
神戸市北区八多町屏風の辻の道標、2基 (平成23年5月14日 追加)
● 八多町屏風の旧道の三叉路に2基の道標がありました。右の道標は西国三十三所巡礼を終えた村人の報恩供養のための道しるべと思われます。また、左の自然石型の道標は、年代はありませんが「ハ」の標記から見てかなり古いもののように思われます。
● 右の道標銘文(正面・東)(1857年、み)
右面「安政四巳十二月吉日」
正面「右 おうこ三木 /奉納西國供養 /左 むらミち」
左面「〇〇同行二人 /施主當村田中 /傳右ヱ門 /池ノ上 /清三郎」
● 左の道標銘文(正面・東)
正面「右ハ三木 /道 /左ハ村」
神戸市北区八多町深谷口バス停前の道標 (平成23年5月14日 追加)
● この道標は、深谷口バス停付近の県道38号線沿いの大きな記念碑の前にありました。北への道は大坂からの丹波道に繋がる播磨道です。南は湯の山街道です。
● 銘文(正面・北西)(1853年、うし)
右面「嘉永六丑三月吉日」
正面「 右 ありま /
奉供養西國三拾三所 道 /
左 京大坂」
背面「同行 平兵衛 吉蔵 /清兵衛 嘉平冶 /惣兵衛 五兵衛 /
源右衛門 与吉 /冶兵衛 重三郎 /栄冶郎」
神戸市北区八多町附物の道標 (平成23年5月14日 追加)
● 上の道標から南へすすむと小さな辻に出ます。六甲を越えて兵庫方面に向かう黒甲越え道との交差点になります。この辻の湯の山街道側にこの道標はありました。道標の東西南北は、この地の方位と進む方角を示しています。
● 銘文(正面・北)
右面「西 すく三木姫路」
正面「北 すく 三田篠山」
左面「東 すく有馬大坂」
背面「南 すく兵庫港 明治十四年巳十二月建之 /発起人 平山」
神戸市北区有野町堀越橋西詰の道標 (平成23年5月14日 追加)
● 堀越橋西詰の石垣の上にこの自然石型の道標がありました。ほとんどの文字は判読できませんが、「神戸の道標」などによると次のように書いてあるようです。北区内では一番古い道標です。この道標は、元は堀越橋西詰にあったのですが、道路拡幅の際、この石垣の上に移設されました。
● 銘文(正面・東)(1730年、いぬ)
正面「 右 者りま 享保十五(戌?) /
奉納三十三所觀世音菩薩 /
左 村 西國同行七人」
神戸市北区有野町五社の道標、2基 (平成23年5月14日 追加)
● この道標があるのは、五社の交差点付近の旧道になります。道標のあるこの地点は、新道ができる前の三叉路になっており、左に向かう細い道は西の方の堀越に向かって延びていました。道標の左側は「有野村道路元標」です。
● 銘文(正面・東)
正面「右 三田きよ水 /左 三木ひめじ 道」
有馬温泉、有馬御苑前の道標 (平成23年5月25日 追加)
● 有野町から有馬口駅を経由して有馬温泉への経路は登り坂が続きました。有馬温泉の手前で頂上となり、太閤橋の辺りが一番低く、また登り坂になります。その登りに差し掛かった右手が有馬御苑ですが、この玄関横の植え込みの中に道標がありました。元は少し北にあったようです。神戸電鉄有馬温泉駅付近の三叉路辺りでしょうか?
● 銘文(正面・東)
右面「世話人(横書き)佐渡屋吉兵衛 /松阪屋源右衛門 /八幡屋和助」
正面「右 三田きよ水 /左 兵こ三木」
有馬温泉、温泉寺と湯泉神社 (平成23年5月25日 追加)
● 温泉寺の説明板によると「本尊は薬師如来、温泉で人々を病から救おうと行基上人が724年に建立しました・・・」とありました。温泉寺の境内からかなり長い石段を登ると湯泉神社になります。
● 有馬温泉の歴史は古く神代の昔に温泉が発見されたのが始まりといわれ、道後、白浜と並び日本三古湯に数えられています。有馬温泉が広く世間に知られるようになったのは、奈良時代に僧行基が温泉寺を建立し、鎌倉時代に僧仁西が十ニの宿坊を建ててからといわれています。さらに繁栄をもたらしたのが太閤秀吉です。秀吉は湯冶のため度々有馬に足を運び千利休らと盛大な茶会を催しています。
● 銘文(正面・西)
正面「湯泉神社 /薬師寺 参詣道」
背面「皇紀二千六百年記念 有馬名産 /炭酸煎餅本舗」