(平成23年9月8日)
播磨から一路西へ向かいます。岡山市中区東岡山から岡山市内を通り、板倉宿でしばし山陽道を離れ、備中高松城址まで歩いてみました。
岡山市中区百間川原尾島橋付近
● JR東岡山駅の少し南に山陽道がありますが、この辺りの山陽道は地図でもわかるように南西にほぼ一直線に延びています。沿道は比較的新しい住宅街で昔の面影はありません。
● 百間川に架かる原尾島橋を渡ると古い常夜燈がありましたが、年代はありません。その少し南に北向地蔵がありました。
(↓下の写真をクリックすると拡大できます)
● 旭川に架かる京橋を渡ると右の植え込みに「迷子の道標」という珍しい道標がありました。かってはこの辺りは人通りも多く、迷子も多かったようです。
● 後日、神戸市内の湊八幡神社境内にも迷子の建て石を見つけました。その説明板によれば、石柱のくぼみの部分に、それぞれの手紙などを貼ってお互いの情報を交換するという使い方をしていたようです。
● また、この道標の100㍍ほど北に、かなり大きな浮田幸吉の飛行の碑があります。表具師幸吉は鳩の体と羽の割合などを調べ大きな羽翼を作り、それをつけて天明五年(1785)京橋から旭川の河原に飛んで成功したとあります。これらのことは飯嶋和一著「始祖鳥記」に詳しく書かれています。飛行機マニアとしてはたのしい碑に出会いました。
● 迷子の道標銘文(正面・東)
右面「志らする方」
正面「迷子志る道」
左面「たつぬる方」
背面「明治二十五年十一月一日建設 岡山市役所」
● 表具師幸吉之碑銘文(正面・西)
正面「世界で始めて /大空を飛んだ 表具師幸吉之碑 /
岡山市長 岡崎平夫書」
● 京橋の西詰下流側にこの里程元標はありました。設置当時に近い場所に復元されたものです。記述内容は以下の通りです。
● 銘文(正面・北)
右面「真金へ貳里貳拾貳町貳拾貳間」
正面「岡山縣里程元標 岡山市橋本町」
左面「藤井へ貳里壱町五拾八間壱尺」
背面「明治四十年八月」
● 京橋のたもとにあった岡山市の道路元標です。近くの説明板に大正九年に設置されたとありました。形状は全国統一ですが、字体は兵庫県で目にするものとは若干異なり、岡山県の方が太字です。
● 銘文(正面・西北)
右面「岡山市」
正面「道路元標」
岡山城 (平成23年9月22日 追加)
● 旭川河口部のデルタ地帯の小高い山「岡山」には、南北朝に築かれた城塞がありました。ここに宇喜田秀家(直家の子)が、 8年間の大事業の末四重六階の天守閣を築いたのが現在の岡山城の原型です。安土城を模したといわれる天守閣は、その黒漆塗りの外観から「烏城」とも呼ばれています。
● 関ヶ原の戦いで宇喜多家は改易、その後は小早川秀秋が城主となりますが慶長7年に急死、小早川家は断絶します。慶長8年に姫路藩主池田輝政の長子、忠継が城主となり、江戸期を通じ池田家が岡山城下を整備しますが、岡山城は明治になって池田家から岡山県に提供され、広大な城郭は市街地へと姿を変えていきます。昭和20年の岡山空襲で天守閣などは焼失しましたが、昭和41年に秀家当時のイメージで再建され、現在に至っています。
後楽園 (平成23年9月22日 追加)
● 日本三名園の一つ後楽園は、岡山藩2代目藩主池田綱政が藩郡代津田永忠に命じて、貞享4年に着工し、元禄13年(1687~1700)に完成しました。藩主の静養の場、賓客の接待の場として使われていましたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。明治17年に岡山県に譲渡され一般に公開されるようになりました。その後、水害や空襲により被害を被りましたが、江戸時代の絵図に基づいて復旧が行われました。広さは4万坪で、日本に自生する野芝を多く使った庭や旭川の水を引き入れた池などにより勝れた水の景色を作り出しているのが特徴的です。
● 山陽道は、京橋から路面電車に沿って、西大寺町、城下、柳川と岡山城下をを通り、柳川から北に向かい、後楽園通りとの交差点を左折します。ここからは途中、山陽本線などを地下で通り抜けますがほぼ西へ一直線です。奉還町というアーケードのある長い商店街を通ります。国道180を横断した少し細い道に差し掛かったところに道標がありました。ここから南東にむかえば京橋への近道になるということです。
● 銘文(正面・西)
正面「京橋江ちか道」 (「江」は小文字)
背面「明治十九年八月建之」
● 吉備津彦神社参道の碑がありました。ここから南西方向の吉備中山の麓に吉備津彦神社があります。同神社は備前国一宮で「朝日の宮」の別名もあります。近くには備中国一宮「吉備津神社」もあり、混同します。創建は古く推古天皇朝(6世紀末ころ)と伝えられています。 主祭神は四道将軍のひとり大吉備津彦命です。
● 銘文(正面・西)
右面「皇徳灼乎如智星」
正面「吉備津彦神社参道」
背面「奉献 盛山鴻三 」
● 地図で確認すると、ここから500㍍ほど北に日蓮宗大覺教会がありますので、そこを案内する道標でしょう。岡山地方へ初めて日蓮の教えを伝えたのは大覺妙実で、岡山県内には大覺が開創した寺院が三十ヶ寺を超えるといわれています。延文三年(1358)天皇の命により雨乞いの祈祷を行いみごと成功したので、その功績により「大僧正」に任じられたということです。
● 銘文(正面・南)
正面「是より北五丁 /大覺大僧正道 /
昭和七年八月施主 三宅拒(弓偏に巨)」
● この道標の右面には里程が入っていませんが、北の岡山空港の近くに馬屋上小学校がありますので、この辺りが馬屋上村であったのだと思います。
● 銘文(正面・北)
右面「(右指差し手形)吉備津宮へ /(左指差し手形)馬屋上村へ」
正面「(右指差し手形)高梁へ十里 /(左指差し手形)岡山へ二里」
背面「昭和五年三月當村蜂谷堅治建之」
● 西辛川の三差路に西向きにこの道標は建っていました。岡山方面をのぼりと記しています。
● 銘文(正面・西)
正面「右 みち (下部)お可山/の本”り」
左面「左 ミち (下部)か奈川(金川)/津山」
● 船坂峠の「從是西備前國」からここまでが「備前国」、これから西は「備中国」に入ります。境界になるようなものは近くを流れる小さな川しか見当たりませんが、地図で確認すると、現在は岡山市北区の西辛川と吉備津の境界になります。前の道路は国道180号線で矢板宿を過ぎた辺りから山陽道とダブっていましたが、ここから山陽道は再び国道から分岐します。また、碑に年代はありませんが、「岡山の道しるべ」によれば、元禄12年(1699)に建てられたようです。
● 銘文(正面・北)
正面「從是東備前國」
(平成30年4月17日,追加)
● 明治31年測量の地図に国境の線が表示されていました。(写真右)
● 国境の碑から山陽道に入って間もなくのところに、この一里塚があります。石柱のみで当時の面影は全くありません。
● 銘文(正面・北)
右面「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ昭和三年三月内務大臣指定」
正面「史蹟 真金一里塚」
左面「 昭和五年三月建之」
● 吉備線吉備津駅付近にある「吉備津神社」の鳥居と石柱です。吉備津神社は、吉備国と備中国の境にある吉備中山の北西の麓にあり、元々は吉備国の総鎮守だったのですが、吉備国が三国に分割されたときに、備中国の一宮になりました。祭神は大吉備津彦命です。
● 板倉宿の西の五叉路にこの道標はありました。南面の表記が少々複雑です。牛の鼻ぐり塚は牛の鼻輪を積み上げた塚ですが、ここから東の福田海という寺院の中にあるようです。町中の当時の絵図によれば大橋は、ここから東の西辛川に架かる橋です。九字の庭は福田海の境内にある庭のようです。また、西面は、ここから西の方角、総社市の宝福寺を案内しています。
● 銘文(1806年、ひのえ・とら)
東面「南 庭瀬江三十丁(下部)右の本利道 /左くたり道」
南面「牛の鼻ぐり塚 (中部)九字能庭 /ふくでんかい境内にあり
(下部)文化三寅年山陽道板倉宿 /東三丁大橋 /追昭和六十年四月復元」
西面「西 井山寶福寺江 ニ里半」
北面「右 松山江八里 足守江ニ里」(各面とも「江」は小文字)
● 平成24年5月31日追記
以前は植え込みでわからなかったのですが、手前(東側)に小さな道標があるのがわかりました。東面「(右指差手形)いなり」とあるので、北区高松地区の最上稲荷を案内している道標です。また、道標の写真も入れ替えました。
備中高松城址及び周辺 (平成23年9月22日 追加)
● 高松城趾は、山陽道をはずれ板倉宿から約3㌔ほど北へ向かった所になります。
● 天正10年(1582)羽柴秀吉は、信長の命を受け三万の大軍を率いて備中国南東部に侵入し備中高松城を攻めます。高松城は深田や沼沢に囲まれた平城で水面との比高が僅か4㍍しかなく、人馬の進みがたい要塞の城でした。秀吉は黒田官兵衛の献策を入れ水攻めを断行し兵糧攻めにするために、高さ4間(7.3㍍)、長さ28町20間(約3㌔)に及ぶ堤を12日間で完成(5月19日)させました。現在の地図で言えば、JR足守駅近くの足守川取水口から、JR備中高松駅東の蛙ヶ鼻築堤跡までになります。折しも梅雨の時期であり、増水した足守川の水は、またたく間に城周辺一帯を188haの大湖水にしました。
● 6月2日早暁に本能寺で信長が討死にしますが、その20時間後には明智光秀から毛利方への使者が秀吉の軍に捕縛され、秀吉の知るところとなりました。(「武功夜話」によれば丹波城主細川藤孝から三木城主前野長康、さらに秀吉へ3日早朝のルートも?)これを隠したまま6月4日高松城主清水宗治の切腹を条件として毛利方と講和し、天王山へと向かう、いわゆる中国の大返しが始まります。ここ高松城は秀吉にとっては天下統一の起点となった地であります。
● 現在城跡は公園となっています。当時の堤は、東端の蛙ヶ鼻の部分がわずかに残され、発掘調査も行われました。資料館の展示や係の年配の女性の方の説明によれば、堤の中には米俵や墓石などもあり、突貫工事の様子がうかがえるそうです。