―山陽道の道標(2)―

(平成23年1月29日)

 山陽道は摂津の須磨を出発し、京都に向かいます。このページでは、須磨~芦屋までの道標を紹介します。京都までは、西から兵庫宿(神戸市)、西宮宿(西宮市)、昆陽宿(伊丹市)、瀬川宿(箕面市)、郡山宿(茨木市)、芥川宿(高槻市)、山崎宿(京都府山崎町)の宿場があります。江戸時代の旅人は、一日に二宿(約10里)くらい進んでいました。

 

神戸市須磨区関守稲荷神社の石柱  

●  山陽道(神戸市内の石柱は江戸時代の街道跡、西国街道として示されていますが、ここでは引き続き山陽道とします)からは少し外れますが、摂津国のスタート地点をここにしました。場所は特定できませんが7世紀中ごろにはこの辺りに須磨の関がありました。当時は鈴鹿の関、逢坂の関、竜田の関と並び四境と呼ばれていました。百人一首の「淡路島かよう千鳥の鳴く声にいく夜寝ざめぬすまの関守」でも知られています。

● 説明板によれば、この石柱は、明治初年西国街道と、今は暗渠となった千森川の交差するあたりの土中から掘り出され、西国街道沿いに建てられていましたが、山陽電車のガードの改修工事の際、現在地に移されたということです。

 

● 銘文(正面・東)

 右面「川東左右関屋跡」

 正面「長田宮」

 

神戸市須磨区須磨寺の参道の道標

● 須磨寺は関守稲荷神社の少し北になります。この参道の道標は、現在は須磨寺の山門手前にありますが、元々は山陽電車の須磨寺踏切の南の西国街道須磨寺参道に建てられていました。 須磨寺には一の谷の戦いで熊谷直実に討たれた平敦盛の青葉の笛がいつのころからか公開され見料を集めるようになったとあります。芭蕉の句碑「須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇」もありました.。合戦の模様を再現した銅像もあります。

 

● 銘文(正面・南東)

 右面「これよりすまてらへ三丁あまり」

 正面「従是須磨寺三町余」

 左面「是より須磨寺に三町余」

 

神戸市須磨区菅の井広場前の石柱

● 山陽道に戻り東に向かいます。山陽道は境川からJR須磨駅前あたりまでは国道2号線と重なっていましたが、須磨区千守交差点で北東の山陽電車須磨寺駅方面に進みます。そのきれいに整備された道路の一角にこの石柱はあります。

● この広場には、延喜元年(901)菅原道真が九州太宰府への途中、須磨に一時上陸し休んだ際、近くの旧家前田家が井戸の水を差しだしたところ大層喜ばれました、という言い伝えがあり、その屋敷の中にあった井戸や松が復元されたということです。

  

神戸市長田区大田町交差点の石柱

● この辺りの西国街道は、神戸市の幹線道路としてよく整備されています。また、古代山陽道とも重なっているようで、当時は大路(おおみち)と位置付けられ道幅も9~12㍍くらいでしたが、江戸時代には脇街道となり道幅も3~6㍍ぐらいだったそうです。現在の中央幹線は道幅50メートルです。当時の面影は全くなく道標が残っている様子はありません。 

● 大田町交差点を過ぎると、史蹟蓮の池がありました。この池は、畿内を行脚していた僧行基が天平年間に水不足に悩む村人のために作ったといわれ、極楽浄土に因み一株の蓮の花を投げ入れたところ、毎年蓮の花が咲くようになったのでこの名がついたそうです。平家物語や太平記にも書かれているので古くから名所として知られていました。

 

神戸市兵庫区柳原惣門跡前の石柱

● 山陽道は、蓮の池(西代駅前)から高速長田駅前を通り、JR兵庫駅の北側に向かいます。JRの高架を通り過ぎるとここ柳原惣門跡に出ます。この惣門は兵庫津の西の出入口になり、ここから兵庫の城下になります。そしてこのまま東に進み、南仲町の札場の辻を左折し北に向かうと、七宮付近の湊口惣門で兵庫津城下を出ることになります。

● 兵庫津は、行基年譜天平十三年(741)に「大和田船息」としてみえるように、古くから瀬戸内海の重要港湾として整備されていたようです。その後平清盛により大陸貿易の拠点「大輪田泊」として大改修され、さらに鎌倉時代に修復が行われ「兵庫津」と呼ばれるようになりました。天正年間には池田恒興(信輝)が兵庫城を築き(兵庫区中之島)城下町として栄えます。慶応三年(1867)神奈川、長崎とともに東側の神戸村に神戸港が開港され、その機能は移されました。

  

神戸市兵庫区の清盛塚

● 山陽道からは少し外れます。この十三重の塔は1286年の建立です。平家滅亡の約100年後に時の権力者によってここに建てられたといわれています。当地と平清盛(1118~1181)の関係はいろいろあります。その一部は柳原惣門跡の項で説明したとおりですが、その他に福原遷都という歴史上の大きな出来事もあります。冶承四年(1180)現在の兵庫区福原に都を移しますが、公家らの反対で半年後には京都に復帰することになります。

  

兵庫城跡の碑  (平成23年2月1日 追加)

● 清盛塚から新川沿いのキャナルプロムナードを北に向かうとこの碑の前になります。碑の正面は「兵庫城跡 /最初の兵庫県庁の地」、背面には「天正九年(1581)池田信輝が、この辺から切戸町にかけて、兵庫城を築いた。明治元年城の一部に、最初の兵庫県庁がおかれた。昭和三十八年三月 神戸市」と書いてありました。

  

神戸市兵庫区の札場の辻の道標

● 山陽道を柳原惣門から東に進むとここに出ます。やっと道標らしい道標を見つけました。下部は欠損しています。一時期もう一筋東の角に移されていましたが、最近元々あったこの場所に再設置されたということです。地図で確認すると、築島寺(来迎寺)はここから東、即ち右にあるので180度回転させると案内が現在の地図と合致するのですが、移設の際各面が見えるようにしたのでしょう。近くの説明板によれば、この辻は城下の中心地にあたり、ここに大きな高札場(幕府の布達等を掲示する場所)があったので、「札の辻」とも「札場の辻」とも呼ばれていたそうです。札場は、東西の惣門と来迎寺前の4か所にあったということです。

● この道標を北に向かった本町公園のまえに「岡方惣會所趾」の石碑があります。その左側にある由緒によれば徳川時代兵庫津の行政機構は全域を三分し岡方、南濱、北濱とした。これを三方(みかた)と称し、大坂町奉行の支配下であった。三方にはそれぞれ総会所があり、名主が惣代や年寄などを指揮して行政を行っていた、とありました。

 

● 銘文(正面・南西)

 正面「右 和田御崎」

 左面「左 築島寺」

  

神戸市兵庫区湊口惣門跡の石柱

 ● ここは兵庫津、山陽道の東の出入り口にあたります。山陽道はここから北のJR神戸駅の方へ進みます。途中新開地6丁目に西国街道ビルがあり、その前にも「西国街道」の石柱(写真右)があります。ここから中央区になります。

● 湊口惣門については説明板によれば、天正年間、織田信長の命によって、池田信輝は花隈城を攻略し、その功により兵庫を冶し兵庫城を築城した。その築城時には数か所の門口や番所が設けられたが、徳川時代にすべてが破却され、湊口と柳原口の両門のみ残した、とありました。 

 

湊八幡神社境内の迷子の建て石 (平成25年6月13日、追加)

● 神社の境内に「迷子の建て石」があると聞いたので行ってきました。岡山市内で同様の建て石を見たときは、いつ頃のものでその使い方は?など疑問がありましたが、ここの建て石の銘文と説明板の記述で疑問がほぼ解消されました。

● 説明板の記述は以下の通りです。「湊八幡神社は、西国街道の兵庫津東の入口で、徳川時代は番所があり要衝であった。警察活動の行き届かない時代の迷子探しの方法として考えられ、神社塀外に建っていたのがこの建て石である。昭和20年3月17日の戦災により破損したが、現存しているのは数少なく、当時の風俗を物語る貴重な史料である。この度、これを修復するとともに新たに同一のものを作り併せ建立して、永く保存しようとするものである。 昭和46年4月吉日 湊八幡神社」

 

● 銘文(正面・南)

 右面「志らする方」

 正面「満よひ子のしるべ」

 左面「たつぬる方」

 背面「明治十年十一月 /有志以十五名建之 周旋 某 /

    昭和四十六年修復再建湊八幡神社」  

  

神戸市中央区湊川神社境内の石碑

● 当初は左面のみが刻まれた石碑が山陽道に建てられていましたが、毀損したため弘化三年に再建されたと伝えられています。湊川神社は、楠木正成を祭る神社で地元では「楠公さん」とも呼ばれています。楠木正成は延元元年(1336)五月足利尊氏との戦いに敗れ、その墓は長らく荒廃していました。元禄五年(1692)徳川光圀がこの地に顕彰碑を建立し、以来水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬されるようになりました。明治元年、尾張藩主徳川慶勝らの建白により、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため神社を建設することを命じ、明治2年(1869)現在地に創建されました。境内には兵庫県神社庁もあります。

 

●銘文(正面・南東)(1846年、ひのえ・うま)

 正面「従是楠公石碑道」

 左面「従是くすのき公せ記ひみち」

 背面「弘化三年丙午夏五月再建」 

    

兵庫縣里程元標  (平成23年2月1日 追加)

● 横の説明板によれば、元々は少し南の相生橋の西に建てられていましたが、JRの高架化に伴い昭和6年10月にここに移されました。昭和35年から湊川神社内に移設されていましたが、平成16年3月ここに再移設されました。山陽道は、ここから元町の商店街を通り三宮神社の方に向かいます。

● 里程元標と道路元標について

 明治六年(1873)太政官日誌により各府県ごとに「里程元標」を設け、道程の調査をすることを命じました。その後、大正8年(1919)には道路法で各市町村に1個づつ道路元標を設置するよう定めました。その設置場所は府県知事が指定することとされ、兵庫県では大正9年兵庫県告示で県下の設置場所を決めました。この元標の左面に「御影標柱へ 貳里五丁九間三分」とありますが、これに呼応する標柱が、後述の「東灘区阪神御影駅前の御蔭標柱」になります。

 現行の道路法では、これらの道路元標は道路の付属物とされ特段の規定もなく、そのため道路工事で壊されたり、いつの間にかなくなった道路元標も少なくありません。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「兵庫縣鳥取縣 管轄界 戸倉標柱へ 三拾四里貳拾貳丁三拾六間五分 

    兵庫縣岡山縣管轄界 西大畠標柱へ 貳拾八里三拾壱丁三拾六間五分

    梨ヶ原標柱へ 貳拾五里貳拾貳丁四拾壱間六分 

    明石標柱へ 四里三拾丁拾三間」

 正面「兵庫縣里程元標 神戸市相生橋西詰」

 左面「御影標柱へ 貳里五丁九間三分 

    兵庫縣大阪府 管轄界 下河原標柱へ 七里拾七丁四拾五間七分 

    神崎標柱へ 七里拾九丁壱間貳分」

 背面「明治四十三年 二月」

 

神戸市中央区下山手8丁目の道標

● 湊川神社からは山陽道を少し離れて神戸地方裁判所前を通り東に向かうと、きれいな商店街の中にこの道標がありました。この道標の前の通りは古代山陽道の道筋とも言われています。播磨町本荘の人が立てています。ここから左、北に向かうと再度山方面に向かいます。また、東に向かうと花隈城趾に出ます。そこから南にJRの高架を通ると、再び山陽道に合流します。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「(地蔵坐像)左 再山道」

 左面「左 婦多たひ山道」(ふたたび山)

 背面「願主 播州阿閇本庄 /梅谷氏」

  

神戸海軍操練所跡 (平成23年2月1日 追加)

● 神戸港発祥の地を訪ねました。ここも山陽道を少し外れます。

● 文久三年(1863)3月海軍奉行並であった勝海舟は、将軍家茂と大阪湾を巡視し、神戸村に上陸後「この村に海軍の仕官育成の機関を建設したい」と直談判します。これが直ちに受け入れられ文治元年(1864)「神戸海軍操練所」が設立されました。余談ですがこの隣に「神戸海軍塾(勝塾)」が設けられ、塾生の一人に龍馬がおり、その資金調達のため福井藩主松平春嶽を訪ねるなどの働きをしました(海軍操練所と私塾と坂本龍馬の関係は諸説あるようです)。しかしその2年後の慶応元年(1865)に海舟の更迭とともに神戸海軍操練所も閉鎖されました。明治に入って操練所跡は、外人居留地に面する税関に変わり「神戸港」の発展がはじまりました。

  

山陽道と浜街道の分岐 (平成23年2月2日 追加)

● 山陽道は神戸市の中心部を通りぬけます。兵庫縣里程元標から元町の商店街を通り、大丸百貨店を過ぎ、生田神社参道(生田筋)を北上し、JRの高架を過ぎたあたりで右折し東に進みます。浜街道は生田筋の中ほどから、三宮センター街を通りぬけ、脇浜海岸通辺りを経由し、国道43号線とほぼ並行して芦屋市打出町辺りで再び山陽道に合流するルートを辿ります。

  

神戸市中央区生田神社前の道標 (平成23年2月8日 追加)

● 元は山陽道沿いの赤鳥居の脇に立っていましたが、その後、石の鳥居脇に移され、震災後再び現在地に移されたということです。左面の和歌は、第84代の順徳天皇(在位1210~1221)の御幸の際に詠まれたものです。順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子で、幼少より歌才に抜きんでていたそうです。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「右 兵庫播磨道」

 正面「生田森 願主神戸 /西見定五郎」

 左面「秋風にまたこそ訪はめ津の国の /生田の森の春のあけぼの」

 背面「左 京大坂 布引滝十三丁 /麻耶山一里半 /住吉二里三丁 /

      西宮四里三丁 道」

 

神戸市中央区長狭町の郡界石 (平成23年2月8日 追加) 

● JR三ノ宮駅の少し北の繁華街の一角に立っています。元は旧生田川の堤防にあったものがここ北向地蔵の隣に移されたものです。昔、生田川を境に八部郡(やたべのこおり)と菟原郡(うはらのこおり)に分れていた名残です。明治29年に武庫郡に併合され消滅しました。その後武庫郡は神戸市、芦屋市、西宮市、尼崎市、宝塚市が独立し昭和54年に消滅しました。摂津の国は13の郡がありましたが、六甲山の南側は、西から八部郡、菟原郡、武庫郡とならんでいました。

 

● 銘文(正面・東)

 正面「八部 /兎原 両郡界 生田川(以下欠損)」

  

神戸市中央区新生田川付近の石柱と橋の標識 (平成23年2月9日 追加)

● 山陽道はJR三ノ宮駅の東側からJRの高架下を通りぬけて、国道2号線の北側を東の阪神電車岩屋駅の方へ向かいます。この約2㌔の間に4か所の「西国街道」の案内や説明板が設置されていました。神戸市は震災復旧事業の一環として、西暦2000年をきっかけに西国街道の整備などを行ったそうです。この先もよく整備された案内や説明板をたくさん見ました。

  

神戸市灘区の敏馬(みぬめ)神社 (平成23年2月9日 追加)

● 一方西国浜街道は生田筋で西国街道から分岐し、三宮センター街を通り国道2号線の南側を東へ向かいます。大名行列の多い西国街道に比べ、浜街道は庶民の街道でもあったようです。阪神電車岩屋駅と国道2号線に挟まれた高台に神戸市内最古の神社、敏馬神社があります。説明板に神功皇后摂政元年(201)の創建とありました。この高台は敏馬の崎、東側は敏馬の泊りと呼ばれ神社のすぐ前まで海であったそうです。昭和になって埋立てがすすめられたようです。したがって、このあたりでは浜街道は神社のすぐ前を通っていたことになります。

  

神戸市灘区岩屋、龍泉寺南の道標 (平成23年2月9日)

● 敏馬神社のすぐ東に敏馬山龍泉寺がありますが、その南の一角にこの道標はあります。元はここから少し南の坂の下の浜街道沿いに立っていたということです。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「右 摂州路」

 正面「右 京大坂」

 左面「龍泉寺」

  

神戸市灘区大石南町の石柱 (平成23年2月9日 追加)

● 敏馬神社から東に進むと阪神電車大石駅南で都賀川にさしかかります。このあたりも震災では大きな被害を受け、公園には多くの方の名前が書かれた慰霊碑がありました。都賀川に架かる西郷橋の西詰に大きな道標があります。

● 近くの大石町の由来の説明板には興味深い話がありました。ここ大石村は、天正十一年(1583)頃から始まった大坂城築城に際し、大石川上流で採れる石を良質の石として指定を受け、地域の人たちは「御石」(おいし)と呼んでいたそうです。これを大石浜まで運び、全国に船で出荷していたようです。また、近隣では菜種油や酒などの生産も盛んとなり、大石浜の港は大いに栄えていました。嘉永三年大石村の松屋の持ち船「栄力丸」が難破し、アメリカ船に救助されました。中には播磨町本荘出身で後に日本の新聞の先駆者となるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)も乗っていました。

 

● 銘文(正面・西)

 右面「西暦二〇〇〇年 /大石町まちづくり協議会建之」

 正面「旧西国浜街道」

 左面「西 岩屋 /東 東明」

 背面「神戸市長 笹山 俊幸書」

  

東灘区御影塚町の処女塚(おとめづか)の道標 (平成23年2月9日 追加)

● 都賀川を渡り浜街道を東に進みますが、一旦街道を外れます。国道43の東明交差点を北に向かうと処女塚古墳があり、その少し北の阪神電車の高架を過ぎたところにこの道標はあります。ここは浜街道と山陽道の中間辺りになります。処女塚古墳は、築造が4世紀前半と推定されている全長70メートルの前方後方墳です。東西それぞれ約2㌔にある東求女塚古墳、西求女塚古墳とともに万葉集や大和物語に悲恋の舞台として登場することで知られています。

● 小山田建雄は延元元年(1336)五月湊川の戦いで敗れて東へ逃れる新田義貞の身代わりとなって忠死した義貞の重臣小山田太郎高家のことです。

 

● 銘文(正面・北)

 右面「小山田建雄戦死碑」

 正面「兎原遠とめ塚」

 左面「小山田建雄戦死碑」

  

石屋川付近の山陽道 (平成23年2月9日 追加)

● この辺りの西国街道は、阪神電車の石屋川駅と国道2号線の中間になります。周辺には昔の街道の面影を残す西国橋一里塚橋や当時の並木の松などがあります。山陽道は御影中学校の中を通りほぼ国道2に重なって東に進みます。また、幕末に神戸市内の外人居留地を避けるためのバイパス、徳川道が設けられましたが、その東の起点がここにあります。

  

東灘区阪神御影駅南の御影標柱 (平成23年2月9日 追加)

● 西国街道から再び浜街道方面に向かうと阪神御影駅に出ます。この駅の南側に御影標柱がありました。元町の兵庫縣里程元標の東面に書かれた御影標柱です。上部は欠損していますが、神戸の道しるべを引用して全文を記します。昭和11年の御影町誌にこの西側に御影町道路元標が立っていたという記録がありますが、今はありません。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「大正貳年貳月 武庫郡御影町ノ内御影町」

 正面「神戸元標江 貳里五丁九間参分」

 左面「六甲山ヲ越ヘテ有馬(標柱江) 参里拾貳丁参拾五間四分 

    尼崎標柱江 四里四丁貳拾六間六分 

    守部ヲ経テ伊丹(標柱江) 四里参拾壱丁貳拾参間五分」

 背面「兵庫縣 (管轄界)西宮(標柱江)貳里五丁貳拾八間五分 

    管轄界下河原標柱江 五里拾貳丁参拾六間四分 

    大阪府 (管轄界)神崎(標柱江)五里拾参丁拾壱間九分」

  

東灘区御影本町の道標 (平成23年2月9日 追加)

● 御影駅から南に進むと国道43の浜中交差点に出ます。ここから東の浜街道は国道43と重なります。この交差点の2筋東の角にこの道標があります。元々はどこにあったのかは不明です。「神戸の道標」によれば、大阪、神戸間の鉄道は明治七年に開通していたのでこのころには住吉駅も営業を行っていたということです。当時としては「住吉ステーション」は珍しい表記です。

 

● 銘文(正面・南)

 右面「周旋人 加納冶良平 /萬田為介」

 正面「從是住吉 /ステーション迠九丁四十五間」

 左面「明治十四年六月建之」

  

東灘区御影本町の徳本上人の道標 (平成23年2月9日 追加)

● 住吉ステーションの道標から2筋東の東御影の交差点角にこの道標はあります。徳本上人石碑は、ここから北の方の白鶴美術館西隣の上人山徳本寺にある江戸時代の僧徳本上人が修行時に用いた座禅石を案内していると思われます。

 

● 銘文(正面・東)(1849年、つちのと・とり)

 右面「春ぐ 兵庫 三里」(春ぐ=すぐ)

 正面「是より徳本上人石碑 十八丁」

 左面「春ぐ 大坂道七里 /西宮 /三里」

 背面「嘉永二 /己酉年 和泉屋 /鶴吉」 

  

東灘区呉田会館前の道標2基 (平成23年2月10日)

● 国道43の住吉南町3の交差点の南東角に呉田会館がありますが、この前に2基の道標があります。これらの道標は、戦前この近くにあった住吉神社の御旅所に立っていましたが、昭和55年ここに移設されたということです。(神戸の道標)また、江戸時代に「大阪」と表記されるのは珍しいことなので、後に複製されたのかもしれない、と近くの説明板にありました。余談ですが、この辺りは灘五郷の一つで剣菱、白鶴、菊正宗など酒造大手の工場が並んでいます。

 

● 国道側の道標銘文(正面・北)

 右面「右 兵庫〇」(〇は欠損部で「道」)

 正面「住吉大明神」

 左面「左 大〇〇」(〇〇は欠損部で「坂道」)

● 玄関前の道標銘文(正面・北)(1851年)

 右面「左 兵庫明石道」

 正面「住吉大明神社」

 左面「右 西宮大阪道」

 背面「嘉永四年亥春三月建之 /竹谷氏重兵衛 /増田屋民五郎 /

    仝冶郎兵衛」 

  

東灘区魚崎西町の雀の松原の道標 (平成23年2月10日 追加)

● 呉田会館から国道43に沿ってさらに東に向かいます。住吉川の右岸、国道43の北側に神戸市環境局東灘事業所があります。その正門脇の植え込みにこの道標はありました。「魚崎の浜辺一帯の松原は古来雀の松原と呼ばれる景勝地であるとともに古戦場としても有名な地である。詠歌の主は魚崎の人、松尾勘左衛門」(神戸の道標)、 「平家物語」(源範頼が福原を攻める際)「太平記」(足利尊氏と義直の戦いのとき)「信長公記」(信長軍が花隈の荒木村重を討つ際)などにも書かれているようで、幾度となく戦いの場となったことをうかがわせます。

  

● 銘文(正面・東)

 右面「名ところを人につくとや松原に /やどる雀の声やあまたは 日遊」

 正面「雀松原古跡 是ヨリ /一丁半」

  

東灘区住吉東町の村界の碑 (平成23年2月10日 追加)

● この村界の碑は、国道43から住吉川右岸を少し北に向かったモノレールの魚崎駅の近くにありました。この辺りは古くから境界争いが行われており、その和解成立と境界を示す石碑です。現在は住吉東町一丁目と魚崎西町四丁目の境界になります。

 

● 銘文

 東面「明治十四年三月」

 南面「是ヨリ /南 魚崎村 /世話掛 /下村冶兵衛」

 北面「是ヨリ /北 住吉村 /世話掛 /山下八郎兵衛」

  

東灘区五百地公園内の道標2基 (平成23年2月10日 追加)

● 再び国道43に戻り東に向かうと覚淨寺交差点になります。この交差点の一筋南の五百地公園の入口に自然石型の道標と「魚崎町道路元標」があります。浜街道のどこかにあったものを移設したものと思われます。

 

● 銘文

 南面「左 兵庫道」

 西面「右 大坂道」

  

神戸市東灘区住吉の有馬道の道標 (平成23年2月18日 追加)

● 阪神御影駅を北に向かい国道2号線(西国街道)を少し東に行った住吉交差点にこの道標はありました。道標の西側は本住吉神社です。道標の隣の説明板を要約します。

● 「江戸時代この神社の前は本陣があり、休み茶屋も両側にあった。六甲越えの有馬道は魚屋道(ととやみち)であったが、明治7年に大阪・神戸間に鉄道が開通し、住吉に駅が設置されると、住吉川沿いに山中に入り、魚屋道に合流する道が利用されるようになった。これが住吉越えの「有馬道」である。この道も明治32年の阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の開通により使われなくなり、昭和13年の水害で消滅した。」

 

● 銘文(正面・南)

 正面「有馬道 是ヨリ北江 /九十丁」

  

東灘区八坂神社の本庄村道路元標 (平成23年2月18日 追加)

● 再び浜街道に戻り東を目指し、国道43号線を歩きました。八坂神社で「本庄村道路元標」を見つけたので掲載しました。

● 右の写真は、近くの栄公園にあった説明板です。神戸市内ではこうした説明板や石碑が実によく整備されていて大変助かりました。 

  

東灘区本庄小学校の浜街道のなごり松 (平成23年2月18日 追加)

● 国道43号線の青木交差点から1本北の筋を東に進むと、本庄小学校の一角に浜街道名残の松がありました。さらに東に進み髙橋川を渡ると踊り松地蔵がありました。

● なごり松の説明板によれば、昔このあたりは海岸の近くで松林がありました。明治33年になって本庄小学校が建設された際、運動場の端に松が並んでおり、この松は、その当時をしのばせます。

● 踊り松地蔵は、踊り松あたりに散在していた五輪塔や石仏などを付近の市街化にしたがって旧浜街道筋のこの地に集められました。  

  

東灘区深江駅南の魚屋道(ととやみち)の道標 (平成23年2月18日)

● 踊り松地蔵の少し東の交差点にこの碑はありました。大日霊女神社の一角になります。南北の通りが魚屋道で、東西の道路は西国街道です。隣の説明板を要約します。

● 「魚屋道は江戸初期から灘地方と有馬を結ぶ東六甲最古の山越え交通路であった。幕府が灘から有馬への正規の街道を西宮、宝塚、船坂、有馬と定めたあとも遠回りを嫌った人たちがこの道を利用した。西宮や生瀬などの街道沿いの宿場商人は、これを「抜け荷街道」と称して通行禁止を大坂奉行へ訴え、しばしば紛争が続いた。文化3年(1806)灘本庄と有馬の人々がひそかに道の大修理をした。深江浜の魚は大正時代まではここから有馬に運ばれていた。」

 

● 銘文(正面・西)

 右面「従是北江 /有馬湯迠 三里」

 正面「魚屋道」

  

東灘区朱鳥居の道標 (平成23年2月18日 追加)

● 魚屋道を北に向かうと国道2号線(西国街道)に出ます。この交差点の北に稲荷神社の朱鳥居がありその前にこの道標があります。北の稲荷神社を案内しています。鳥居は高さ5・8メートルで昭和2年の建立になっています。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「稲荷之社 從是三町」

 左面「堂島講中」

 

芦屋市清水町の道標 (平成23年2月18日 追加)

● 国道2号線を朱鳥居から東に向かうと、500メートルほどで芦屋市になります。芦屋市に入ってすぐに骨董店があり、その店先に珍しい形の道標がありましたが、よく見ると大阪にあるべき道標でした。売り物なのでしょうか? 芦屋市図書館の資料にもあったので古くからここにあったようです。この店にはほかに「従是東尼崎領」などと書かれた藩境界石もあったようですが、見落としました。

  

● 銘文

 右面「(右向き手形)天王寺 /すてー志よん」手形の下にローマ字表記あり

 左面「(左向き手形)四天王寺 /かう志んだう」(庚申堂?)

  

芦屋市浜芦屋の道標 (平成23年2月18日 追加)

● このあたりの浜街道は、国道43号線とほぼ重なります。この道標は芦屋川を渡り、43号線を一筋南へ入った住宅街の木立の中にありました。碑面がよく見えないので、芦屋市図書館で調べてみました。道標建立の趣旨が和歌風に記されていました。

(令和元年5月11日に現物確認の上、銘文の一部を修正しました。)

 

● 銘文(正面・南)

 右面「兵庫県武庫郡精道村はまあしや」

 正面「(仏像立像)右側 /通行 向って

    (下部) 右 東、西乃ミや、 尼さき、 おほさか

        左 西、うを崎、 みかげ、 かうべ  」(現物には句点がある)

 左面「ふみまよう人もやあるとたまぼこ(玉鉾)の /

    美ち(道)能(の)志るべ(標)をここに建てたり /柿屋主人由翁」

 背面「大正十四年十二月建之 由翁」

芦屋市役所南東角に移設 (令和元年5月11日、追加)

● この道標は、元々この場所(旧浜街道)に設置されていましたが、昭和32(1957)年に国道43号線拡幅工事のため上記場所に移設されました。地主の方の依頼により平成29(2017)年、元の場所に戻された、という経緯があったようです。

  

芦屋市打出駅北の道標 (平成23年2月22日 追加)

● 阪神打出駅の北の筋(西国街道)の交差点に自然石型の道標があります。ここから約600メートル北にある親王塚を示しています。親王塚は、4世紀前半の円墳です。年代が合わないのは古い古墳を墓に再利用したのではないかといわれています。

● 阿保親王(792-842)は第50代桓武天皇の孫で、平城天皇の第一皇子になります。また在原業平の父でもあります。「薬子の変」(810)に連座して太宰府に左遷され、14年後許されて京に戻り、上野国や上総国の太守を歴任しますが、晩年は所領の打出の別館で過ごしたということです。

 

● 銘文(正面・南)

 正面「平城天皇第壱皇子 /是ヨリ五丁 /阿保親王廟」

  

芦屋市春日町の道標(2基) (平成23年2月18日 追加)

● ここは、西国街道を東に進み阪神電車打出駅を過ぎたあたりになります。浜街道との合流間近のマンションの一角に2基の道標がありました。角柱型の道標の「左中山道」は西国三十三所の第24番札所中山寺を案内しています。芦屋市資料によれば丹州恵比須村は、兵庫県丹波市市島町カとなっていました。この道標の施主の住所でしょうか。背面の「亀」は住所か名前かわかりません。

 

● 自然石型道標銘文(正面・南)

 正面「(地蔵立像)法界」

 左面「左 甲山 /中山 /妙見山 道」

● 角柱型の道標銘文(正面・南)

 正面・南「右 西宮道」

 左面「左 中山道」

 背面「丹州恵比須村 /亀」 

  

浜街道と西国街道の合流地点 (平成23年2月18日 追加)

● 上の道標を200メートルほど東に進むと阪神電車で行き止まりになりますが、このあたりが浜街道との合流地点で、すでに芦屋市を通りぬけて西宮市弓場町になっています。右の写真は、浜街道側から見た合流地点です。正面に西国街道と同じマンションが見えます。こちら側は阪神電車に沿って道路は続いています。この辺りが両街道の合流地点、東から来れば分岐点になりますが、それらを示す標識などは何もありません。神戸市のように詳しい説明板でもあれば助かります。