(平成25年11月16日)
加西市坂本町の法華山一乗寺を起点とし国道372号線の善坊交差点から北行するルート、これは加古川市志方町細工所を経て加西市北条へ向かう北条街道(県道43号線、加西市では高砂街道)の延長になります。この道筋と周辺の道標を紹介します。
(平成26年1月25日、追加)
国道372号線の姫路市飾東町小原交差点から加西市剣坂を経由して北条町に向かう道筋(国道と同じで紛らわしいが県道372号線)の道標を「姫路市飾東町から加西市北条町へ」として末尾に追加しました。北条町を中心とした街道の状況は、「加西の道標」(加西市教育委員会)によれば次の通りです。
● 一乗寺から東へ向かい、山道を下ると坂本町の集落に差し掛かりますが、新道と旧道の分岐点にこの道標と丁石があります。道標は新しいので文字は明確に確認できますが、丁石はほとんど文字がみえません。加西市資料「加西の道標」で確認しました。
● 道標銘文(正面・北)
正面「右 旧道」
左面「左 新 /道 一八〇〇メートル」(「新道」は横書き)
● 丁石銘文(正面・北)
正面「(梵字) 是ヨリ十丁」
左面「法花堂」
加西市坂本町の道標(2) (平成25年12月14日、追加)
● 坂本町の家並みが途切れたあたりの参道右側にかなり傾いて、この道標がありました。坂本町の道標(1)から200㍍ほど北になります。地図では確認できませんが、ここは三叉路のようです。あぜ道を右へ行くと坂本町の道標(3)の所につながります。浄土寺は小野市にあります。
● 明治26年測量の地図で確認すると、この辺りで北の丹波道(現国道372)方面に合流する道と、東の三口村で北条街道(現県道43号)と交差する道とに分岐している。右の三口村へ向かう道の途上に坂本町の道標(3)があることになります。
(平成26年10月3日、追記)
● 銘文(正面・南西)(1776年、ひのえ・さる)
右面「右 浄土寺江三里」(「江」は小文字)
正面「左 きよ水江八里」(「江」は小文字)
左面「願主 信〇・・・ /坂本・・・」(「・・・」は埋没)
背面「安永五年丙申」
加西市坂本町の道標(3) (平成25年12月14日、追加)
● この道標は、現在の参道からすこし外れた大きな建物の南側になりますが、坂本町の道標(2)とは、あぜ道でつながっているようです。直線距離で100㍍ほどです。
● 再び明治26年の地図で確認すると、この辺りでもさらに道が2方向に分岐しています。左は坂本町の道標(2)で分岐し三口村へ向かう道で、もう一方は山裾を縫うように東に延びて、北条街道(現県道43号線)と合流しています。この延長線上に三口町の道標(3)があります。(平成26年10月3日、追記)
● 銘文(正面・西)
正面「(地蔵坐像) 右 あ越 /きよ水
左 三口村道 」(「あ越」は「粟生」か?)
加西市三口町の道標(3) (平成25年12月25日、追加)
● この道標を探すのにはかなり手間取りました。山すその旧道と思われる細い道の三叉路の草むらにありました。坂本町の道標(3)の1㌔ほど東になります。地図では確認できませんが、この道標は旧い道でつながっていたのかもしれません。「右」は道標の後ろの道を東に進むと北条街道(県道43)に合流し加古川市志方町細工所の方に、「左」は小野市の浄土寺を案内しています。また右面の願主は坂本町の道標(2)とおなじと思われます。
● 銘文(正面・北)(1781年、うし)
右面「願主 信〇清心 /坂本一〇」
正面「右 か古川 /左 浄土寺」
左面「安永十丑年」
加西市坂本町の道標(4) (平成25年12月14日、追加)
● この道標は、三口西交差点の手前の、新しい参道とあぜ道の十字路北東角の水路脇に枯れ草に囲まれていました。下部の埋没と全体の風化のため判読が困難な個所があったので、資料「加西の道標」を参照しました。日本百観音と四国88ヶ所の計188ヶ所の巡礼を成就し奉納した道標のようです。
● 銘文(正面・南)(1833年、み)
右面「奉納(中部)四國 /西國 /女父 /坂東
(下部)百八十八所 /當村行者」(「女父」は「秩父」?)
正面「右 きよみず /左 ひめじ」
左面「天保四巳年正月建之」
● 三口西交差点手前で善坊川に沿って旧道がありますが、旧道を進むとすぐにコンクリートの橋があり、その先に「順礼橋」の碑があります。ここが25番清水寺への古道のようです。
● 銘文(正面・東)
正面「順礼橋」 下部の文字は欠損もあり不明確「十方施主」(?)
右面「明治第十一 /戊寅五月建之」
背面下部に「周旋人」と右横書きされ、下に五人の氏名が縦書きされている。
「稲岡寿之助 /丸岡石松 /芝徳五郎 /王子克己 /富永寅吉」
加西市三口町の道標(1) (平成25年8月17日作成)
● 順礼橋を渡ると、国道372号線の手前に昭和3年の銘の入った比較的大きな四角柱の道標がありました。道標には一乗寺まで2800メートルとありますが、途中からは上り坂になります。正面が東向きなので、加東市の西国25番霊場清水寺方面からの巡礼者らに案内しているものと思われます。
● 道標には施主や周旋人として10名の名が書かれていますが、その中には稲岡姓が多く見られるのは、近くにある富久錦酒造の関係者でしょうか。
● 銘文(正面・東)
右面「西 ひめじ /東 やしろ きよみづ」
正面・東「奉納(右横書き) 左 法花山参道 /是ヨリ二八〇〇メートル」
左面「施主 當村神代鶴醸造場 /稲岡耕作 /昭和参年巳五月」
背面「周旋人(右横書き)三口 稲岡壽之助 稲岡三十 坂本 佐藤富三郎
稲岡芳太郎 丸岡石松 岩崎熊冶
西岡熊太郎 佐藤安太郎
松田慶冶 」
● 旧道は国道372号線を横断して、国道の北側の山すそをほぼ並行して善坊の交差点に向かいます。その中間辺りの三叉路にこの道標がありました。「右ひろみね」の方向は、数メートル先で行き止まりになっていますが、明治26年の地図では、この道が旧丹波道でここで一乗寺からの巡礼道と合流しています。
● 折損と風化と埋没で全容は判りませんが、表記は以下の通りです。臘月の表記を見るのは、姫路下野田の道標に次いで2基目です。また、この時代に氏名に苗字が付けられるのは珍しいことです。
● 銘文(正面・東)(1844年、きのえたつ、12月)
右面「天保十五年甲辰臘月十一日建・・・」
正面「右 飛ろみ祢ひ免・・ /左 本つけさん志・・・」(一部埋没)
左面「南無阿弥陀佛」
背面「施主 /牛居村 前田兵左衛門
〇 子 東郷弥市良
同 同 七郎大夫 世話人
同 飯尾善右衛門 東笠原村 」
戸田井村 高見彦左衛門
加藤市場 近藤長兵ヱ
● 三口町の道標(2)から旧道を北に進むと、善坊交差点の少し北に出ますが、この辺りは旧道と新しい国道が複雑に交差しています。丹波道、北条道に加え、巡礼道などの古道と、近年の道路整備による新しい交差点もあり、このような複雑な交差点が出来上がったものと思います。この道標は善坊交差点北西の三角地帯の中にありました。
● 方向の表示は、それぞれ指差し手形になっています。表示のうち「の条」は、北東の方角にある「野条町」を、北条鉄道に長(おさ)駅がほぼ北の方向に見えます。
● 銘文(正面・南)
右面「(右指差し手形)の条 /(左指差し手形)志かた」
正面「右指差し手形)きよみず /(左指差し手形)ほつけ山」
左面「(右指差し手形)かこ川 /(左指差し手形)をさ」
背面「施主・・・・ /明治四十五年六月」 (・・・は判読不能)
● 善坊交差点北の道標(1)の南側の三叉路に小さな祠があり、その中にこの道標はありました。刻銘はほとんど判読できません。「加西の道標」では、「右清水」となっていますが、その部分は写真を拡大してみると「法花山」のように読めます。
● 右は私がいま通って来た道なので、法華山一乗寺の方に向かいます。左は少し南の三口交差点を南に向かうと、加古川、高砂方面になります。「北条街道の道標」の「志方町細工所の道標」のところにつながります。
● 銘文(正面・北)
正面「(地蔵坐像) 右 法花山/ひめぢ(?)
左 たかさご」
● 国道372号線の鶉野南交差点を北に向かって200㍍ほど進むと、旧道と合流する三叉路になっていますが、その南角の民家の前にこの道標がありました。
● 「左 きよ水」は、ここから北に向かうことになります。この辺りはよく整備された道路がまっすぐに延びており、正確なことは判りませんが、どこかで国道372に合流し北東に進むと清水寺方面になります。また「左 そね高砂」は南に進みますが、加古川市の手前の倉谷西交差点で県道43、北条街道に合流します。曽根高砂方面には播磨の名松などがある当時の観光地でもあり、いわゆる「めいしょ道」(加古川市法華山入口の道標の表示)でもありました。
● 銘文(正面・北東)(1806年、とら)
右面「左 きよ水」
正面「右 ほつけ山 ひめじ」(「ひめじ」は下部に小さな文字で横書き)
左面「左 そね /高砂 道」
背面「文化三寅三月 /西國同行」
加西市中野町の道標(3基) (平成31年4月15日、追加)
● 「鶉野町の道標」から北東方向に水田地帯を進むとこの道標になります。正面は東向きなので清水寺から法華山に向かう巡礼者に案内していると思われます。ここから清水寺への巡礼道はR372号線に出て北に向かい、「加東市高岡、庚申堂前の道標1」につながります。
● 大きな道標の後ろの祠には2基の小さな道標が納められています。
● 銘文(正面・東)
右面「享和貮年」 (1802年)
正面「右 ほう志やう (下部)西國同行
左 ひめじ 十三人 」
高さ85㌢、 幅19㌢、 奥行18㌢
● 銘文、祠内右の道標(正面・東)
正面「(上部に仏像坐像) 右 なかの /左 うつらの」
高さ39㌢、 幅20㌢、 奥行13.5㌢
● 銘文、祠内左の道標(正面・東)
正面「(上部に仏像坐像) 右 北條 /左 法花山」
高さ43㌢、 幅16.5㌢、 奥行12㌢
加西市西笠原町の道標 (平成26年1月17日、追加)
● 鶉野南交差点から国道372を善坊交差点まで戻り、県道43号を北に向かいます。ほぼ500㍍進んだところで右折して大きな溜池の中を通り抜けると、池の東側の畦道に小さな道標がありました。夏場では雑草に覆われて見つからなかったことでしょう。また、近くには「享保十七(1732)年」の「大乗妙典一石一寧塚」と書かれた碑が建っていますが、圃場整理やため池の開発などが行われているので元の位置はよくわかりません。
● 道標の文字は風化と埋没のため明確ではありませんが、表示の東西南北の文字と設置位置が180度異なるので、この地点の方位ではなく進む方向を表しているものと思われます。また、案内の内容から近くの四辻に設置されていたと考えられます。
● 銘文(正面・西)(道標の設置方向は、道路と並行にはなっていない。)
右面「(梵字)北 北条 /たんば」
正面「(梵字)東 三木 /国包」
左面「(梵字)南 加古 /ひ・・・」(「・・・」部分埋没
背面「(梵字)西 辻川 /たじま」
加西市王子町墓地前の道標、2基 (平成26年1月17日、追加)
● 県道43に出て北に進むと王子町に入ります。しばらく進むと県道と細い道とが合流しますが、そこが墓地の入口です。その入口の付近に北向きに2基の道標が建っていました。「右 山道」は墓地の方向になり、左は加古川や高砂方面になります。
● 右側の道標銘文(正面・北)
正面「(仏像) 右 山ミち /左 加古川」
● 左側の道標銘文(正面・北)
正面「(仏像) 右 山道 / 左 高砂」
加西市王子町地蔵堂前の道標、2基 (平成26年1月17日、追加)
● 北条鉄道踏切の手前の地蔵堂前に、道路より少し下に2基の道標がありました。道路から見て右の道標は文字が見えますが、案内する方向が180度反対になるので、どこかから移設されたものと思われます。また、左の道標は樹木に覆われて写真ではよくみえませんが、2基並んで建っています。また、埋没していて文字も読めません。
● 右の道標銘文(正面・西)
正面「(仏像) 右 山みち /左 加古川み〇」
● 左の道標銘文(正面・西)
正面「(仏像) 右・・・ /左 ・・・」(「・・・」部分は埋没)
加西市戸田井町の道標 (平成26年1月17日、追加)
● 北条鉄道の踏切を渡り、しばらくしてから右の方へ細い道路を入ると四辻にこの道標がありました。花を供えに来たおばあさんに聞くとこの道標の前(東側)の道が旧道で以前はバスも走っていたということです。県道43の西方には採石場が見えます。長(おさ)石は、高砂市の竜山石と同質で加工のし易いしやすい石材だということです。この辺りの道標はこの長石が多く使われているようです。
● 銘文(正面・東)
正面「(仏像) 左 法花山 /かこ川」
左面「右 北条」
加西市大村町の道標 (平成26年1月17日、追加)
● 下里川を渡り、今度は左に細い道を入ります。1本目の道を右に曲がった先にこの道標がありました。多分ここが旧道なのでしょう。この道標の文字は劣化が激しくほとんどが読めません。加西市作成の「加西の道標」によれば次の通りです。
● 銘文(正面・南)(1835年、未)
正面「(仏像) 右 北条 /左 おさ」
左面「天保六未年」
加西市鎮岩町の道標 (平成26年1月17日、追加)
● 鎮岩町は「とこなべちょう」と読みます。付近の道路より一段低くなった側溝の上にこの道標がありました。平成6年発行の前述「加西の道標」では、この道標は半分ほど埋没した状態で文字も半分ほど不明になっていますが、現在は写真のようによく整備された状態になっていますので、道路整備の際に設置し直されたものと思われます。
●銘文(正面・西)
右面「すぐ けん坂 /左 かこ川」
正面「(仏像) 右 ほうじ・・・ /為夢覺童子 /すぐ(欠落)」
加西市北条町西高室の道標 (平成26年1月17日、追加)
● 県道43号の西高室の交差点を過ぎた次の細い道を左に入ったところにこの道標がありました。光背部分の細い線がかなり明確に残っています。
● 銘文(正面・南)
正面「(仏像) 右 北条 /左 きし 坂元」
加西市北条町横尾の道標、3基 (平成26年1月17日、追加)
● 加西市の中心、北条町に入り、東南(ひがしなん)交差点を右折して東に進みます。古坂(ふるさか)交差点の手前で西京街道(周辺の案内板では「西国街道」となっている)と交差します。この西京街道を左折して西に向かうと1本目の三叉路に、西向き地蔵堂がありその南側に3基の道標が並べられています。
●一番手前は、天保七(1836)年の道標で、2番目は年代がありませんが、3番目は享保13(1728)年の刻名があり、加西市内では最古の道標です。
● 西京街道は、東の社、篠山を経て京都方面に向かうことができます。また、手前の道標の明楽寺は加西市の北部にあり福知山、宮津の丹後方面へ行けます。ここはその分岐点ということです。
● 1番手前の道標銘文(正面・西)(途中で折損の痕跡あり)
右面「天保七年丙〇霜・・・」 (「〇」は欠落、「・・・」は埋没)
正面「右 やしろ大坂京・・・ /左 明らくじ たん・・・」
左面「西國四國同行中建・・・」
● 2番目の道標銘文(正面・西)
右面「為庚申供養○者也」
正面「右・・・ /左・・・」 (劣化のため判読不能)
左面「當〇〇衆」
● 3番目の道標銘文(正面・西)
右面「享保十三年戊申年」
正面「無縁塔 右 やしろ /左 明らくじ 道」
左面「三月十五日」
背面「横尾村」
加西市北条町古坂の道標 (平成26年1月25日、追加)
● 加西市民会館と埋蔵文化財整理室に挟まれた公園の一角にこの道標はありました。案内の表記から想像すると北条町の中心地あたりから移設されたものでしょうが、元の正確な位置については判りません。また、背面にある「世話人」の名前などから江戸時代の道標のようにも思えます。
● 銘文(正面・北)
右面「左 辻川 志そう たじま」
正面「右 法花山 髙砂 明石 /左 小野 三木 兵庫」
左面「右 辻川 完(宍?)粟 但馬」
背面「世話人 かじや柳蔵 /きくや幸蔵」
加西市大柳町の道標 (平成26年1月25日、追加)
● 国道372号線の小原交差点から県道372号線を北に向かうとすぐに姫路市から加西市大柳町になります。古法華自然公園や古法華寺に向かう橋の西側にこの供養塔があり、その祠の側面に道案内が記されています。
● 銘文(正面・西)
右面「すぐ 北條」
前面右側「大正十二年一月」、左側「施主 大柳婦人会中」
左面「すぐ 法花山 /ひめぢ」
加西市大柳町の道標(2) (平成26年1月31日、追加)
● 「大柳町の道標」から100㍍ほど北に進んだ三叉路に地蔵堂があり、その右側に小さな道標がありました。小さいながらも4面に文字が入っています。しかし、このままでは方向が合いません。90°右、仏像面を西にむけると合うと思います。道路の整備と共に設置し直されたものでしょう。
● 銘文(正面・西)
右面「(仏像) 幻霜童子 /幻影童子」
正面「右 ひろみね /左 ごちゃく」
左面「すぐ ひろみね /ひめぢ」
背面「すぐ 北条」
加西市中山町の道標 (平成26年1月31日、追加)
● 県道372沿いの石垣の一部が祠になっており、その中に2基の道標がありました。道路の整備とともに設置し直されたものと思われます。中山大師は県道372から西に300㍍ほどのところにあり、いぼ取りに霊験があるようです。
● 右の道標銘文(正面・東)
正面「(左向き指差し手形) 中山大師道」
左面「大正八年四月 /未(?)年男」
● 左の光背型道標銘文(正面・東)
正面「右 北条 /(仏像) /左 村道」
加西市東剣坂の道標 (平成26年1月31日、追加)
● 県道372を北に進むと剣坂の交差点に出ます。ここを右折して200㍍ほど進むと右側にこの道標がありました。道標の右の道を進むと曹洞宗妙嚴寺があります。
● 銘文(正面・北)
右面「(右指差し手形) 是より一丁」
正面「准(?)西國 /第二十七番 興國山妙嚴寺」
左面「昭和三年十二月 施主 福住 /田中常太郎」
加西市福住町の道標(2基) (平成26年1月31日、追加)
● 県道372に戻り、北に進み賀茂川という小さな川の界橋(さかいはし)をわたると福住町になります。福住郵便局の前の四辻の一画にこの道標がありました。お堂の内と外にそれぞれ1基あり、どちらも北の方角、北条と東の方角の岸呂町を案内しています。お堂の左が旧道のようです。
● お堂の外の道標銘文(正面・南)
右面「明治三十四年十一月建」(「三十」は縦棒三本に横棒一本)
正面「(仏像)右 岸呂村 /左 山下村」
● お堂の内の道標銘文(正面・南)
正面「(仏像)右 岸呂 /左 北条」(他の面は未確認)
加西市山下町の道標 (平成26年1月25日、追加)
● 山下町で県道372から、ここを右折し、東に進むと北条鉄道播磨横田駅や播州東洋ゴルフ倶楽部のクラブハウスの方にむかいます。さらに東に行けば、「鎮岩町道標」の所に出ます。道標にある「よこた妙見」がどこをさすのか確認できません。地図では佛名寺しか見当たりません。しかし横田町方面は道標の「左」になります。
● 銘文(正面・西)
正面「右(?) 南無妙法蓮華経 姫路講中
よこた妙見へ 五丁」(上部にある「右」の文字は不鮮明)
加西市西横田町の道標(1) (平成26年1月25日、追加)
● 山下町の道標から右折して、北条鉄道播磨横田駅西側周辺の道標を探してみました。建設会社に隣接する新たに整地された一画にこの小さな道標がありました。風化による劣化のため読み取れませんでしたので、「加西の道標」で調べてみました。
●銘文(正面・南)
正面「(仏像) 右 やしろ /たかむろ /左 むらミち」
加西市西横田町の道標(2) (平成26年1月25日、追加)
● 西横田町の道標(1)から東に向かい右折して山側に入ったところにこの道標がありました。右への道はすぐに途切れていますが、左は播磨横田駅の方に続いています。
● 銘文(正面・西)(1830年、かのえ・とら)
右面「千時文政十三年庚寅年」
正面「 右 法花山
奉順拝四國西國供養塔
左 やしろ大坂」
左面「古角嘉十良了源」
加西市西横田町の道標(3) (平成26年1月25日、追加)
● 西横田町の道標(2)の「左やしろ大坂」にしたがって進むと、変則の十字路になりますが、その北西の角のよく整備された一画に小さな道標が東向きに建っていました。「左 ひめじ」は西横田町の道標(2)に戻りますので、この山のふもとに沿った細い道が旧道かもしれません。
● 銘文(正面・東)
正面「(仏像) 右 むらみ〇 /左 ひめじ」(「〇」は埋没)
加西市山下町の道標(2) (平成26年1月31日、追加)
● 再び県道372に戻ります。北に進むと農道との変則十字路にかなり傾いた小さな道標がありました。
● 銘文(正面・南東)
正面「(仏像)右 村みち /左 ひめじ」
加西市山下町の道標(3) (平成26年1月31日、追加)
● さらに北に進むと、姫路市豊富町方面に向かう県道117と交差し、県道372は終点となります。この交差点にも小さな比較的新しい道標がありました。
● 銘文(正面・北)
右面「昭和廿七年七月」
正面「(仏像)右 姫路 /左 賀茂校」
左面「当村」
加西市山下町の道標(4) (平成26年1月31日、追加)
● 大きな池の手前は山下町の北の端になりますが、ここにも仏像の入った小さな道標が道端にありました。風化が激しく文字はほとんど判読できません。「加西の道標」によれば次の通りでした。
● 銘文(正面・東)(1855年)
右面「安政二年卯月」
正面「(仏像)右 村道 /左 ひめじ小原」(「ひめじ」の「ひ」以外確認不可)
加西市吉野町の道標 (平成26年1月31日、追加)
● 山下町の道標(4)の数十㍍北で吉野町になります。旧道の細い道と県道117との三叉路に半分以上埋まった仏像の入った道標がありました。近くの人のお話では埋まった文字は、北の北条と西の八千種(福崎町)らしいとのことでした。
● 銘文(正面・南)
正面「(仏像)右 (北条) /左 (八千種)」 ( )内は埋没している。
加西市福居町の道標(1) (平成26年1月31日、追加)
● 集落への入口にあたるごみ集積所に道標が建っていました。案内をする表示が少し型破りなのでいろいろと想像できます。両側はこの道標の施主を意味するのでしょうか?あるいは、周辺(播州東洋ゴルフ場内?)から移設されたものでしょうか?
● 銘文(正面・西)
正面「西横田 横田屋 /法花山道 /東横田為小林長」
加西市福居町の道標(2) (平成26年1月31日、追加)
● 福居町の道標(1)のすぐ北の池の堤の上に、仏像と旧い年号の入った道標が建っていました。東方向は、播州東洋ゴルフ倶楽部になるので、道筋をたどるのは難しいのですが、北東方向の西京街道に合流すれば、社を通り篠山方面につながります。
● 銘文(正面・北)(1840年)
右面「天保十一年四月廿二日」
正面「(仏像)南 ほつけ /蓮空童女 /東 たん者”」 (たんば)
加西市北条町黒駒の道標 (平成26年1月31日、追加)
● 県道117を北に進むと本日のゴール北条町になります。姫路市香寺方面に向かう県道410との三叉路に地蔵や石碑が集められていますが、その中に2基の道標がありました。右の道標の下部は一部埋没しています。「よでん 庄村」は現在の地図では確認できませんが、右、すなわち西に向かうと福崎町八千種に余田公民館や庄公民館(姫路周辺では旧字毎に公民館がみられる)が見えるのでこの辺りの地名を指していると思われます。また、左の自然石型の道標はほとんど文字が見えません。
● 右の四角柱の道標銘文(正面・北)(1852年)
正面「右 よでん 庄・・・ /左 ひめじ 飛ろ・・・」
(「・・・」は埋没、「庄」の下は「村」のようにも見える)
左面「嘉永五・・・」(「五」の下は「子」のようにも見える)
● 左の自然石型の道標銘文(正面・北)
正面「南無妙法蓮華経 妙見宮道」
加西市、加西別府交差点の道標、4基 (平成27年5月27日、追加)
● 加西市別府町の加西別府交差点の県道79号高砂加古川加西線東側に、道路元標と3基の道標が集められています。「加西の道標」には一番左の道標しか掲載されていません。左からA,B,Cとして紹介します。
● A道標銘文(正面・西)
右面「四國八拾八箇所」
正面「右 者んじやう 高砂 /(仏像坐像) /左 大門 小野」
左面「明治三十七年九月 /再建施主 當邑 松本来太良」
● B道標銘文(正面・西)
正面「・・・高砂 /・・・ら」(上部欠損)
● C道標銘文(正面・西)
正面「右 者ん・・・ /(仏像坐像) /左 むら...」
● 道路元標 「冨合村道路元標」
加西市別府町の道標 (平成28年5月19日、追加)
● 加西別府交差点から県道79号線を北に向かって500㍍ほど進み、20㍍ほど東に入った三差路に笠塔婆型の立派な道標がありました。玉垣状の石柱に囲まれ地元の方々に大切にされている様子がうかがえます。
● 右(南)に向かえば、繁昌、高砂に、左(東)に進むと加東市の社、清水寺方面であることを示しています。県道79号線の起点は高砂市朝日町の文化会館東交差点ですが、ここは旧浜街道でもあります。したがって道標の「右」方向は浜街道(播磨名所道)への道筋でもあります。右面には施主としてたくさんの名前がありますが、一部欠損のほか最下段には判読困難な文字もあります。
● 銘文(正面・西)(1854年、とら)
右面「施主 當所 當所
太右ヱ門 山枝 富造 サト タマ
重太夫 河内 シメ タキ スミ
〇之助 都染 イソ ミヨ シヤウ
キク 」
正面「(観音立像)右 高砂 者んじやう (高砂、繁昌)
左 清水 やしろ 」
左面「 嘉永七年
寅三月 四國西國供養 」
背面「 世話人 藤造 」
高さ154・5㌢、 幅は25㌢
加西市中西町の道標 (平成27年5月27日、追加)
● 県立フラワーセンターから県道716号玉野倉谷線を南に進むと兵庫産業という工場がありますが、この南側の交差点の西側果樹園の中にこの道標が建っています。道標の表示から推測すると主要街道の交差点であったようです。30㍍ほど西の果樹園の中に、伊勢神宮の大きな「おかげ参り」常夜燈が建っていました。
● 銘文
東面「すぐ 北條 但馬 世話人 /中西村 /勇治郎」
南面「すぐ ふけ たんば」
西面「すぐ 三木 兵庫」
北面「すぐ 法花山 高砂」
加西市畑町の道標2基 (平成29年5月25日、追加)
● 県道23号三木宍粟線を福崎町から加西市に入ってすぐのところに「ゆるぎ岩」の案内板と共に2基の道標が並んでいます。ゆるぎ岩は畑町イナギ山中腹にある卵型の岩で人の力でも動くのでこの名がついたそうです。道標にある河上稲荷神社は高峰山に鎮座している神社で御神体になっている二つの岩の一つは周りの景色が岩の面に映るので鏡岩と呼ばれている、と「加西市歴史街道ガイドブック」にありました。
● 西側の道標銘文(正面・西)
右面「天当教会本部」
正面「天常之瀧修行霊場」
左面「昭和七年四月建之」
高さ100㌢、 幅21.5㌢、 奥行19.5㌢
● 東側の道標銘文(正面・南)
右面「右 播州線北條駅行」
正面「河上稲荷神社 是ヨリ /北八丁」
左面「左 播州線福崎行」
背面「施主 揖保郡〇〇 /片平元(左?)吉
(下部)世話人(右横書き) 當所 /斎藤萬吉 /河原吉太郎」
高さ127㌢、 幅18.5㌢、 奥行18㌢
加西市栄町の道標3基 (平成29年5月25日、追加)
● 県道79号高砂加古川加西線の網引交差点を北方向に過ぎたところの道路右側に古い石造の祠と共に4基の石柱がありますが、その内の3基が道標になっていました。風化も激しく読めない文字も所々にあります。
●全景写真の手前からA,B,Cとして表示しました。銘文は正面のみですべて西向きです。それぞれの案内する方向が合わないので周辺に設置されていた道標がここに集められたものと思われます。
● Aの道標銘文(正面・西)
正面「右 ほうぢやう /左 ほつけ山みち」
高さ37㌢、 幅14㌢、 奥行6㌢
● Bの道標銘文(正面・西)
正面「〇きよ水 /(仏像立像) /〇ほつ〇」
高さ65㌢、 幅51㌢、 奥行15㌢
● Cの道標銘文(正面・西)
正面 「(仏像坐像) 右 たじま /午年一才男 /左 ひめじ」
高さ37㌢、 幅14㌢、 奥行6㌢